2020.08.25
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

美容に気遣って向かう新天地は永遠の美で満ちている

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第110回
訳・文:野村正次郎

業と煩悩 この海獣が犇いてる

苦なる輪廻の海から逃れるため

三つの学処という大船を捉えて

解脱の新大陸へ向かってゆこう

110

無限の苦の源泉である輪廻の海から脱出するための道は、戒・定・慧の三学処を習得すること以外に他に術はない。私たちが輪廻に転生しているのは、業によって流転しているのであり、その業のすべては煩悩より起こっている。その煩悩のすべては自分自身を過剰評価している我執から起こっている。

この我執を断つことがができれば、すべての煩悩を根絶させることができるのあり、すべての煩悩を根絶させることにより、一切の罪業と関わることさえなくなり、それによって苦しみの連鎖を断ち切ることができる。

我執を断じるためには、無我の真実を正しく理解しなければならず、無我の真実を正しく弁別して理解することができるようになるためには、智慧を身につけなければならない。つまり、慧学処を学び習得しておかなければならない。

正しく明晰な智慧を身につけるためには、さまざまなことに決して振り回されることなく、知性を散乱状態のない、常に集中した状態を継続できるようにしなくてはならない。これを定学処の学習というのである。

定学処を修習するためには、まずは私たちが他の衆生との関係で右往左往しないように、身語意の業の三門を正しく制御しておかなくてはならない。行動・言動・思考を制限することによって、我々は自らの活動を正しくコントロールできるようになり、それによって集中状態をつくりだそうとすることが可能となるからである。これが戒学処を身につけなければならないということになる。

仏教を学び、仏教を実践するということは、戒・定・慧の三学を学び、それを身につけ実践することである。それは決して仏教史を学ぶことでもないし、仏教の教義に関する情報を収集する活動でもない。すべての仏教に関する学習や実践は、輪廻からの解脱のためになされるものであって、俗世間や現世利益のために為しているものは、すべて偽物である。

戒律には、大きく分けると別解脱戒・菩薩戒・三昧耶戒の三つがあるが、まずは別解脱戒を私たちは受戒し、その戒律を護持して実践に励むことがよいとされている。何故ならば釈尊の時代から継続している別解脱戒を授かって、それを生命を賭して護持することによって、少なくとも来世に悪趣に転生することを回避することができ、今生で積んだ善業の続きを来世以降も継続できるという保障を得ることができるからである。可能であれば出家して具足戒を護持することが理想であるが、出家はひとりでできるものではないし、出家生活を送るには社会的な理解や支援も必要であるので、いますぐには出家生活ができそうにない場合には、優婆塞・優婆夷という在家の戒律を授かって暮らすことが望ましい。しかし在家の戒律すらもどうにもまだ守れない、と思うのならば、せめて十善戒を護持するようにするとよい。十善戒は、出家・在家に限定されていない、すべての人間にとって守るべきことであるからである。

十善戒には不殺生からはじまり不邪見にいたるまでの十種類があるが、これは実践しやすい順番に並んでいるものである。不殺生をしないことよりも、意味のないおしゃべりをしないようにする不綺語の方が遥かに難しいし、不慳貪・不瞋恚・不邪見といった意業に関するものをきちんと守ろうとすると結構難しい、というのは誰しも実感できることだろう。

輪廻を火宅の如きものであると厭う気持ちを強く起こし、この厭離心の修習によって解脱を得ようとする、ということは、小乗の思想であり、寂静涅槃しか実現できず、他の衆生を見捨てることであるので、この厭離心の修習は大乗の精神に反し、大乗では、生死即涅槃というように生死の輪廻も涅槃もすべては空であるので、輪廻から解脱を求める出離心や出家主義などはあくまでも小乗独自のものである、と考える人もいる。

しかしこの考えは、釈尊が「菩薩は輪廻を恐れるべきではない」と説かれていることへの誤解に過ぎない、とジェ・ツォンカパは解説する。菩薩が輪廻を恐れるべきではない、ということは業と煩悩によって輪廻転生している苦しみを厭離すべきではない、ということではなく、祈願や慈悲の力によって、衆生利益のために輪廻に生を受けることを恐怖と思うべきではない、ということである。菩薩であっても業と煩悩によって輪廻に生を受け、ほかの衆生と同じように苦しみで煩悶しているのならば、利他の活動をするということができなくなってしまうのは当然であり、菩薩は小乗の者たちよりも、遥かに強力に輪廻に対する厭離心をもっていなければならないのであり、三界に転生して積極的に輪廻に終止符をうつ活動をしなくてはならず、その祈願と慈悲の力によって輪廻に生を受けることは、むしろ積極的に輪廻の断滅に関与することであるから、菩薩たちは輪廻に歓喜をもって勇敢に入っていくと考えなけれならない、そしてそのことをアールヤデーヴァやチャンドラキールティは解説している、という。

戒律を守るものは、美しい身体を得ることができるという。諸仏の身体的特徴である三十二相八十種好のほとんどは何世にも渡って戒律を守って生活をしたことから形成されたものであるという。だからこそ本偈で説かれているような解脱の新大陸にいる諸仏・書菩薩は、この世の神々や芸術よりもはるかに美しい身体と物質であふれているのである。諸仏の姿を見ただけですぐに解脱できる衆生もいるように、私たちはまずは戒律をきちんと守って自身の美容に気をつけなければならない。 

俗世間の美容と健康は、物質主義的なものであり、いくら化粧をしても老化の流れには逆らうことができないが、出世間の美容と健康に気を付けることは、決してお金もかからないし、我々が心の内面から発光する輝度を高めるものであり、最終的には諸仏のように後光が指して、すべての暗闇を照らし出し、すべての生きとし生けるものを苦しみを癒す力をもっているものである。俗世間の美容と健康は毎日の積み重ねであるというが、出世間の美容と健康もまた毎日の積み重ねである。今日よりも明日、明日よりも明後日の方がより美しく、より品位のある、そして智慧を内面にもつ、本当の美しさを実現してくれる出世間の美容は、決して老化現象などに悩まされることはない。生老病死の苦海を脱出して、常楽の境地へと向かわせてくれるものである。

神々すらも魅了する釈尊の身体は、戒の実践によって形成されたものである

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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