2020.08.22
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

宿業の囚人、依存症との戦い

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第108回
訳・文:野村正次郎

無明の暗闇が視界を奪っている

宿業の羂索に捕われて繋がれる

渇愛の激流に何処までも流され

尽きぬ生の海へと向かっている

108

これが私である、これは私のものである。この意識は、すべての衆生に共通して、無始以来継続してあるものである。これが私である、と思う自意識は、常住不変であり、複数ではなく単一の個体であり、自由を有する堅固な存在である私、という私に対する自意識過剰から生み出される妄想から逃れてはいない。この自意識過剰から生み出されている妄想のことを仏教は、「我執」と呼び、その妄想によって捕らえられたものを「我」であるという。そしてその「我」を形成するものを「我所」と呼ぶ。これが暗闇のなか、何も分からないでなかまずはっきりと意識できる対象である。そしてそれらをはっきりと、ある意味では、恣意的に捉えている知のことを無明という。

盲目の老婆の足取りは重く危ない

無明は盲目な老女として描かれるが、盲目な老女は、弱く、どこに行くにも困難が伴っている。これと同じように私たちもどこに行こうとしても、何をしようとしても、闇のなかで一縷の希望の光も見えてこないなか、必死にもがいてどこかに行き、何かをしようとする。これが無明によって行がある、という場合の「行」であり、それは業のことを表している。

陶工はさまざまな陶器を作り出している

「行」は陶工に喩えられて描かれる。何故ならば、陶工は大小様々な陶器を作り出すことができるし、高価で高品質の陶器から、低価格で低品質の陶器まで自由自在に作り出すことができるからである。これと同じように暗黒の一縷の希望の光すら見えてこないなか、私たちは陶工のように大小様々な業を積むことができるのであり、善不善の様々な業を積むことができる。大多数の人たちの真似をして行動することもできるだろうし、孤独に自分と向き合い、なるべく善を積もうとすることもできる。過去に為した宿業を私たちは継承しているが、同時に自由自在に新しい業を積むこともできるが、そのすべては最終的に苦しみを生み出すこととなる。だからこそこの宿業の羂索は常に私たちを捕獲しており、奴隷のようにこの輪廻転生へと繋がれた私たちは純然たる苦しみしか経験できない状態にあるのである。こうして無明・行・識・名色・六処・触・受という十二縁起の支分が構成されている。そして受によって愛(渇愛)、そして取(執着)が生み出されていく。

酒呑の男は自暴自棄になりがちである

愛(渇愛)は、酒呑の男の姿に喩えられて描かれる。酒呑の男は、酒の味を享受すること愛着し、自分の精神が冷静で落ち着いた状態よりも、精神が高揚した状態に愛着を覚えている。酒呑の男を翻弄する魔の誘惑は無限であり、酒を給仕する美女は、太古の昔から国家を滅ぼすための姦計の戦士として活躍してきた。

この「愛」とは、「楽受・苦受・不苦不楽という三つの受を対象として起こっているものであり、楽から離れたくない、苦から離れたい、不苦不楽の状態を保っておきたい、ということに対する依存性のある感情であり、その感情が瞬間的に途切れてしまうのではなく、再度繰り返しその感情が継続できるようにという意思で形成されている愛着心・依存心のことである」とグンタン・リンポチェは定義する。

これはアルコール依存症や薬物依存症などの心理状態と同じように、感受しているものが変化することを拒み、繰り返し自己にとって都合のよいものだけが継続して欲しいという欲望にほかならない。この欲望はもう一度だけ、今回限り、などといった様々な言い訳をつくり、我々の倫理観を鈍らせるのであり、自分の行動・言動・思考を制限しているものの制約を緩めてしまい「放逸」の状態を作り出してしまうことに問題がある。しかるに優婆塞・優婆夷の戒律を授かった以上のものは、すべて不飲酒戒を守らなくてはならないことになっている。

ツォンカパの高弟でパンチェン・ラマ一世にも数えられることのあるケードゥプジェ・ゲレクペルサンポは、釈尊は、三種類の浄肉以外の肉食を禁じている場合には、罪業とはならない許容範意が定めておられるのに対して、飲酒に関しては一切の許容範囲が定められておらず、不飲酒戒として独立の戒律の条項が定められていることは、極めて重要な意味をもっている、と述べている。特に重病人が疾病から回復するために、三種類の浄肉を食することについては、特別な例外的な許容事項が律では定めれているが、飲酒については如何なる時であれ、疾病状態にある病人のためであれ、一切の例外が認められず、全面的に禁止されている項目であるとする。

ケードゥプジェは、そして大乗であれ、小乗であれ、顕教であれ、密教であれ、いついかなる時もすべての法門において、飲酒は一切の過失の入り口となり、飲酒を禁じることを釈尊は繰り返し説かれているのであって、このことの重要性を軽んじて考えることは、仏教そのものを破壊してしまうあらゆる他の要因よりも強力なことであると強い警鐘を語っている。

チベットの破仏王ランダルマは、仏教の伝統を破壊するために、僧侶が飲酒をしている姿を故意にラサの寺院の壁画として描かせたことや、ヴァスバンドゥ(世親)は、ネパールを訪れた時、出家者が酒器を運んでいることを偶々目撃したことにより、それを問題視し、仏法興隆への絶望感によって、示寂したと言われており、不飲酒戒というのは大変重要な戒律のひとつである。

このようなことを考えるとやはり飲酒は「般若湯」などといって言い訳をすることが決してできない行為であることが分かるであろう。日本ではアルコール依存症の治療という考えがそれほど発展していないが、近年欧米ではアルコール依存症による銃器を使った犯罪や暴力は深刻な問題であるので、アルコール依存症は薬物依存症や性的倒錯などと同じように、医師の指導に基づいて治療すべきことのひとつとなっているのは、海外ドラマなどをみるとよく分かるであろう。近年日本の若者のなかには、ミニマリストの生活スタイルを送っている人たちも多く、彼らは「酒の席も付き合わない、ゆとり世代」などと中高年から誹謗中傷されているのもよく見かけるが、何も考えていない、バブル時代に放逸し放題の生活を堪能した中高年より、はるかに自らの人生に対して真摯であるとも思われる。

飲酒の文化は世界的にも古いものであるが、楽受・苦受・不苦不楽という三つの受を対象とした行為であることには変わりはない。仲間と楽しい時間を過ごすため、つらい人生の苦しみを忘れるため、この美しい世界の夢と希望が永遠に続くため、などといったすべての言い訳が完全に否定されているのである。

酒をこよなく愛する人たちにとっては実に厳しい話であるが、仏教とはそのようなものであるので仕方がないと諦めるしかない。幸いダライ・ラマ法王はこの不飲酒の戒について、法王の専属教師(ヨンジン)から伝わった伝統で「すぐに酒をやめれない人は、まあ酔わない程度くらいは良しとしよう」という例外的な許可をもらったので、その伝統に基づいて私たちに戒律を授けてくださっているが、同時に「いづれはやめようとすることを忘れてはならぬ」ともおっしゃっている。

レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年の言葉には「人生の幸せのあるところは、美味しいワインのあるとこである」といったり、「呑んでも呑まれるな」とか「酒と女は二合まで」という教えがあったり、愛酒家のための格言は数えきれないほどある。

チベット仏教圏でもこのように厳しい不飲酒を説いてはいるが、チベットやモンゴルやロシアの蒸留酒は極めてアルコール度数も高く独特な強みがある。正月やお祝い事があれば何日も宴会が続き、酒宴が続く文化も現存する。

このように俗世間では酒を飲むためのありとあらゆる言い訳があるが、同時に出世間や仏教の教えでは、解脱と一切智のためには、不飲酒戒に関しては特例の許諾事項は一切設けられていない。不飲酒戒は決して社会制度ではなく、禁酒法のようなものとは異なっている。飲酒に関してはそれほど依存性が高いことが古来から問題であり、それによって倫理が崩壊する危険性があることが問題なのであり、依存性の高い愛着は、輪廻や苦海へと導くものであり、それを断じることが唯一涅槃寂静へと我々が迎える唯一の道である、ということを決して忘れないようにすることは、愛酒家の人たちには耳が痛い話であるが、正しい教えであることには間違いないだろう。チベットの僧侶たちは、出家者である限り、穂先の滴ほども酒を飲んではならないとよく語り、それを実践している。このこと自体素晴らしく尊いものであると思われてならない。

アルコール依存症者のためのグループセラピー

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