2020.08.21
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

虚偽や偽善との孤独な戦い、絶え間ない自省

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第107回
訳・文:野村正次郎

暫定的には善の如く見えるとも

意向や意図は不純なものが多い

最高に甘美な恒河の水でさえ

海と混ざれば苦味に犯される

107

仏教を実践するということは、真実や善に関する営為である。しかしながらこの真実や善に関する営為が純然たるものであり続けることは極めて困難なことである。真実や善に関する営為のその殆どは、虚偽や偽善との孤独な戦いによって実現する。この営為は決して客観的な外在する事実ではないが故、つまるところ自己を先鋭化し、絶え間ない自省を繰り返し、はじめて真実や善業と呼べるものへと近づいていくことができる。

特に善不善というものが純粋であることが難しいのは、それが客観的なものではなく、極めて主観的な営為から生まれるにも関わらず、それが善なのか、不善なのか、というのは個々の私たちではなく、私たち以外の他者との関わりのなかから決定される事項であるということにある。我々の浅薄な知性や知識によって、他者の幸福や快楽を実現することは極めて困難であり、我々にとってはそれが実現できたのではないか、と思うにも関わらず、別の結果しか生み出されないこともよくあるだろう。特に仏教のように現世利益というものの不確実性を説いている宗教において、他者のこれから継続していく来世、そしてその来世までをも考慮しながら、他者に対して何らかの利益をもたらす活動をすることは極めて難しい。どんな人でも他者が幸せになるという希望である他者への慈しみの心をもっているだろうし、どんな人でも他者が不幸にならないようにという他者に対する悲心をもっている。しかしそこに私たち自身が関与し、私たち自身が他者の幸福や不幸を感受することに関わりをもたなければならない、となると果たしてそのようなことができるのかどうか、我々には全く自信や確信をもてないこととなる。現世利益を目的とするような善は有漏の善であると呼ばれており、それは壊苦しかもたらさない、と諸仏は説いている。私たちがこの人のために、と思ってその人と関わることは、たとえどんなに素晴らしい現世的な快楽を与えることが出来たとしても、長期的な視点から見えば、実は却って苦しみの連鎖をもたらしてしまうことも頻繁に起こるのである。

このようなことから、結局のところ私たちには、他者を利益するほどの十分な能力を持っていないことを思い知るしかなくなる。そして他者を苦しみから逃れさせたいという希望は同時に、自己への内省とその能力不足を解消するために、絶対的に利他の活動ができるという一切相智の境位を得なければならない、という使命感や求道心を生み出すことになる。この他者との関わりのなかで、自分がその責務を担わなければならないというは悲心は大悲心と呼ばれ、その責務を務めることができる菩提を得たいという思いのことを菩提心と呼んでいる。菩提心は大乗の者の入り口にあり、大乗仏教の核心は、一切衆生を済度するという菩提心を起こし、その菩提心を常に心に抱いて過ごすことにある。

チベットの高僧たちは、自分たちは無力で、気が小さく、大それたことなどできない、とよくおっしゃっている。彼らは決して臆病であることを美徳としている訳ではないが、善意のせめぎ合いが如何に無益で、善意と称する悪意をもつ小さな業の積み重ねが増殖して取り返しの付かない状態を作り出すという業果の基本原則を常に考えているからこそ、、そのような表現が言葉に現れるのだろう。彼らが教えてくれるのは、本当の勇者とは意外にも大変臆病であり、大変無力な人たちかもしれないということである。

真実や善や美といったものは、実は日常に何処にでも見出すことができるものである。しかしそれらを私たち自身がひとり孤独に純然たるものとして作り出そうとするためには、真実や善とは一体どのようなものなのか、どのような意向と意思によって作り出されるものなのか、ということを知らなければならないのである。真実や善を知ることは、その逆の虚偽や偽善や悪の本質を知ることでもある。だからこそ仏教では苦諦の原因である、断じるべき集諦たる煩悩と業についての長い議論を行っているのではないだろうか。そしてこの煩悩と業の根本にあるものが利己的で自己中心的な我執である。出世間の絶対的な善や絶対的な楽というのは、この我執を克服してはじめて、作り出すことが可能であるという。菩薩の十地のうち初地以降はすべて見道以上の菩薩聖者が有する道智なのであり、禄波羅蜜が完成していくのも、無我を現観した見道以降にほかならない。方便である菩提心と智慧である無我の証解というのは、このように小さな小さなひとつひとつの善を追求することと密接に関わっているものである。

ガンジス河は、八功徳水の満ちた無熱悩池が流れ出る神の身体の川であり、甘美な味わいをもっているというが、海と混ざれば苦く塩味になる。現在では沐浴には使うが、聖地ベナレスでもインドの人たちでも環境汚染によりその水をそのまま余り飲むことも少なくなっている。いまはその心配はないが、よく人生に行き詰まった観光客がガンジス河の水をそのまま飲んで、ひどく胃腸を壊したりしている。どんな水を飲むときにでも慎重であるべきなように、たとえ人生に行き詰まっていようとも、ガンジス河の聖水も要注意なように、どんな業を積む場合にも慎重であることは極めて重要であると思われる。

ガンジス河で夕方に祈りを捧げるインドの一般の人

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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