2020.08.20
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

美しく希望に満ちた楽園を作り出すのか、あるいは、暗黒の暴力に満ちた地獄を作り出すのか、すべては我々次第である。

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第106回
訳・文:野村正次郎

善不善は小さなものを積み重ねて

心の流れのすべてを満たしてゆく

雨雫をひとつずつ集めていくことで

広大無辺な水の曼陀羅となるのである

106

日本の夏は蒸し暑く、外には多くの虫が発生している。特に蚊や蜂や百足たちは、私たち人間が油断しているとすぐに襲いかかってくる。雨が降れば、蟻塚からできてきたありの行列が大量に移動しはじめ、夏は虫たちにとっては大いなる活動の季節である。地中に眠っていた蝉は大きな声を上げて啼いている。夏の夜の街灯には虫たちが集合して夜伽の茶会をしているかのようである。

仏教では、不殺生を説き、衆生利益という善によって、幸福という楽果がもたらされるというので、どんな虫であっても殺すのは不善である。釈尊の時代にも、托鉢にでかける僧侶たちが雨季で地表にでてきた虫を殺すのがよくないから、夏安居というものが開催されるようになり、僧侶たちは僧院からなるべく出かけないようにし、在家の信者たちは僧院に食料を供養しにもってきて、更には施餓鬼などをして夏の間は、特別に功徳を積もうとする。これがお盆の起源であり、お盆とは、私たちが仏教の教えをきちんと守り、他の衆生のことを思いやるための期間である。

小さな虫にも心があり、彼らも幸せになりたい、苦しみたくない、と望んでいる。蜂や蚊が我々を刺してくるのも、彼らの業であり、彼らに刺されるのは我々の業である。彼らに刺されるたくなければ、殺虫剤で彼らを殺してしまっても意味はない。何故ならば、余計に彼らに刺される業を積むことになるからである。腕にとまった蚊にしばらくの間安心して血を飲ませてやり、小さな業を積む。あとで少し痒いがそんなことよりも、その小さな業が増殖して大いなる業果である解脱や一切智の境位に一歩近づけることの方が重要である。小さな業を積んでも、その業を随喜し、そしてそれを一切衆生が速やかに仏になるための資糧となれ、と心から願い廻向する。これが仏教の実践の基本の第一歩である。日本別院で暮らしていた僧侶の方々は、そのことを身をもって常に示してくれていた。

私たちの日常は様々な活動によって成り立っている。そしてその活動の周囲には、必ず他の生物が存在している。どんなに孤独に日本の山奥の洞窟に住んでいようと、小さな虫はやってくるのであり、たとえその周りに人間がいなくても、その小さな虫を痛めつけ殺してしまうことは、不善である。ましてや街中に住んでいる人が、どこか買い物に行き、店員さんと接する時にもまた他の衆生に接している。その店員さんは仕事として笑顔で接してくれるので、無愛想にその人に接することもできるが、その店員さんの笑顔が作り笑顔ではなく、本当の笑顔にするために、ちょっとした善業を積もうとすることは誰にでもできることである。そしてその積み重ねが、我々の罪業を浄化し、無我や空性の証解をもたらすのであり、最終的には解脱と一切相智の境地へと導くことに他ならない。

善不善の業はどんな小さいものであれ、その結果は必ず増殖し原因よりも規模が大きなものとなる。またその業は決して自然消滅したり、無駄になることはない。だからこそ小さな業は必ず大きな結果を生み出すのであり、その結果がすぐに現実化しないからといって、原因を作り出すことは決して無意味ではない。業果の原則に対して深く理解をもっていることは、小さな業の意思決定を裏付ける重要な思考である。私たちの心の流れにおいて善が優勢なのか、不善が優勢なのか、その勢力分布をつくることは私たち自身である。私たちの心に善が優勢ならば、私たちの内面は美しい世界となり、私たちを取り巻く世界もまた美しく、希望に満ちたものとなる。

私たちの心に悪が満ちているのならば、私たちの内面は醜く悪質な世界となり、私たちを取り巻くこの世界もまた醜く、希望もない、退廃した悪意に満ちた荒廃した世界となる。ひと粒一粒の雨雫を集めていくことで、広大無辺な水の曼陀羅、海が出来上がる。美しく穏やかですべての生き物が集う楽園のような海を作り出すのか、常に荒れくれて恐ろしい暗黒の海を作り出すのか、それは私たちのひとつひとつの他者への態度にかかっているのである。

仏教の聖地インドの近くのモルディブのビーチはまさに地上の楽園である

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


RELATED POSTS