2020.08.17
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

私たちはいますぐに何億光年も離れた別の銀河系にも影響を与えることができる

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第105回
訳・文:野村正次郎

器世間 有情世間の苦楽のすべては

確実に過去に為した業から生じている

碗一杯の水もまた四種の衆生にとって

別異なものとして顕現すると説かれる

105

私たちが何故この世界に生まれ、これからどうしたらよいのか、漠然と疑問を抱きはじめたこの問いは、すべての人に共通する宗教的・哲学的なはじめの問いである。宇宙創造説・地球創造説は、遠い過去に寄せる思いものには過ぎないが、この問いの答えこそが、いまの私たちがどうあるべきなのか、そして今後死を迎えるにあたりどうあるべきなのか、ということへの回答を与える最大の要素となる。

ヘブライ文明においては、『旧約聖書』の創世記にあるように、はじめに神が暗闇と水に包まれた場において、光あれ、という言葉で光を創造したことにはじまる。そのことによって昼と夜ができて、創造の第一日目となった。次の日には水を分割し、地上の水と天空の水とに分けて、天ができ、大地を創造し、海を創り、地上には植物を生えさせた。その次に太陽と月と星をつくり、神は魚と鳥を創造し、家畜と獣をつくって、家畜や獣を管理する者として、そこに自分の姿に似せて人を創造して、七日目の日に神は休息したとされている。ユダヤ教・キリスト教におけるこの創造説の特徴は、創造主である全知全能の唯一神が、人間を含めた万象を無から創造したという点に特徴を見出すことができる。創造主である全知全能の神は唯一神であり、神は他には存在していない。超人的な能力を発揮する神と人間との間に存在している者たちは天使や悪魔として表現される。神は絶対善であり、その反対の悪魔は絶対悪である。人間はこの絶対善の意図に従うことにより、死後天国へと召されることができるというのである。

これに対して古代中国の文明では、『淮南子』に「天地未だ剖れず、陰陽未だ判れず、四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず」と天地や陰陽が未文節なるもの、これを『老子道徳経』では「玄」「玄牝」と呼ぶが、名前のない、有無の区別もない、混沌で圧倒的な質量をもつ未文節なものから分裂していくことによって世界の神羅万象が創造され、この分割動作の軌跡と法則性を道と呼び、その道を備えることをが「徳」であるとしている。これらの考え方は我々の住んでいる環境の起源が、未分化なものにあり、それが分化していった過程において、神や人が創造されていく、という世界観である。我が国の神話である『日本書紀』もこの混沌世界に世界の起源があるとする創造説と基本的には同じ構造であり、「天地開闢」と呼ばれる最初に天地が分化したのちに、高天原に神が誕生し、その神々がしだいに増えていくことによって八百万の神が生まれ、神代の後に、国造りの物語が続きいまの日本の社会へと繋がっている。これらは混沌たる世界がまず何らの根拠もなく、存在しており、そこには始源といえるようなものは無いが、人間や神が登場したことによって、法則性や規則性、言葉と論理といったものが生成されていく、という立場である。

仏教の創造論は、私たちが住んでいる物質で構成された環境世界、そこに物質と精神が合体し、意思をもってその環境世界で動いて運動している有情との二つに分けて考えることからはじまる。前者は「器世間」と呼ばれ、後者は「有情世間」と呼ばれる。

有情世間とは、物質である身体と精神の合成体のことであり、その種類には地獄・餓鬼・畜生・人・修羅・天の六道がいる。有情世間は、精神と物質との結びつきを維持している時は、生命を維持し、「生きている」のであり、その結びつきが断絶することを死であるという。この有情世間は、無数に存在しているのであり、いつか誰かが創造したものではなく、無限の過去から存在しているとされる。つまり、特定の創造主によって有情世界全体が想像されたものではなく、個々の有情は、別の身体へと転生しながら、無限の過去から無限の未来へと存在しつづけているものであるという。

この有情世間は、自己の身体として所有している物質をその所有者である精神によって運動させ生きている。この運動は別の有情世間に影響を与えているのと同じように、有情の身体を構成していない、単なる物質に対しても、運動や活動を通じて物質的な影響を与える。たとえば歩いて土を踏んだり、風を切る、というひとつひとつの動きが、大地や大気といった他の物質に影響を与えているのである。歩く際に強く大地を踏めば、その分だけ強く大地は凹み、森に行って木を切って、家を建てるのならば、森の木は建てられる家の場所へと移動する。炭素を人間が多く放出すれば、地球温暖化が進み、これまで何万年も解けることもなかったヒマラヤの雪も解け、海面は上昇し、日本も沈没する。人間の利己的な戦争や疫病などによって自然災害は起こり、科学技術に裏付けされた利便性の高い、社会や娯楽もふくめて、すべては、私たちの業が作り出したものである。業の原則は前回紹介した通りであるが、このいま私たちが住んでいる器世間である娑婆世界はそのうち滅亡し、この娑婆世界は滅亡しても、世界を滅亡に導いた悪業の結果として、娑婆世界以外のどこかの地獄で無限の苦しみを味わうこととなるのである。

本偈で紹介されているように、仏教では環境世界は、我々のもつ業によって同一の物質ですらそれを享受する者の業の質によって変化すると考える。コップ一杯の水ですら、神々が見れば、それは甘露に見え、人間がみればそれは水に見え、餓鬼が見れば、膿の泥水に見え、阿修羅が見れば、それは液体兵器に見える。これは概念的相対主義や視覚の不確実性を説いているものではない。同じものが別のものとして現象している時に、個々の衆生の認識に起きている視覚は正しい認識であることは変わりはないし、それらは正しい認識をそれぞれ正しく認識していると言わなければならない。しかしながら、事実はそれを認識する者の業によって変容するということを説いている。ユリウス・カエサルは、「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない。」と言ったとして有名であるが、私たちの意志は現実に直接的に影響を及ぼすのであり、物質的な身体性を有する有情世間の運動が環境世界そのもに常に影響を与え変容を起こしていると考えるのは、決して非論理的な議論ではない。

このようなことから、私たちがいまこの世界に違和感を感じ、よりよい世界を実現したいとするのであれば、我々がそれを実現できるための業を積むことによって、未来への変化を確実に与えることができるのである。仏教における業によって世界が生成されているという考えは、決して運命は残酷である、といった悲観的なものではない。私たちのひとつひとつの行動、ひとつひとつの言語活動、そしてひとつひとつの精神活動は、常に私たちの環境世界に影響を与えている、ということを意味しているのである。しかるに仏教における地球創造説や宇宙創造論を正しく理解しているのならば、私たちはいますぐに何億光年も離れた別の銀河系にも影響を与えることができる、ということが分かるだろう。

何億光年も離れた星たちも私たちの業によって生成されたものである

RELATED POSTS