2020.08.11
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

釈尊たちが率いる船に乗りこむために

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第104回
訳・文:野村正次郎

三宝を救いとする限り彼らが規範とする

業果の取捨に励みそれを重んじるべきである

たとえどんなに船長を頼りに想っていても

乗船すらしない者を一体どうして救えよう

104

仏法僧の三宝に帰依するというのは、仏教徒としての最低条件である。現世利益をもたらす世間の人間や神々を自分の救いとはせず、仏法僧こそが来世以降の自分たちの救済処であるという気持ちをもつことは、同時に彼らが規範として採用すべきとしていることと、廃止すべきとされているその規範を遵守し、輪廻の様々な難を逃れるために、仏法僧を拠り所として生きていく、という姿勢が必要となる。しかるに仏法僧に帰依する限りは、まずは業報思想をよく理解し、不殺生などの十善業道に励まなくてはならないが、まずは業報思想の基本を私たちは理解しなければならない。

業報思想の基本となるのは、業とその果には基本的な四つの原則があり、それを理解することからはじまる。その四つは何かというと、業はそれぞれ対応する果が決定しているということ、業は為していくに従い増殖するという性質をもっていること、為していない業はその果を経験することがないということ、為した業が果を生じることなく自然消滅してしまうことがないこと、というこの四つである。

まず善因善果・悪因悪果というように、因が何たるかによって果が何たるかは決まっており、そこには必然的な対応関係が存在し、その対応関係を逸脱し、たとえば善因に対して悪果が起こるといったことはあり得ない。林檎の木は林檎を生み出す原因であり、桃の木は桃を生み出す原因であり、林檎の木が桃を実らせたり、桃の木が林檎を生み出したりすることはない。蛙の子蛙であり、蛙から人は生まれない。善業を為しても無駄である、ということにはならないし、悪業を為せば必ず悪果たる苦の受容がもたらされる。この因果律を逸脱した結果が起こることがあり得ない因果の必然性が業果思想の第一原則である。

次に、原因より結果は規模が大きくなり、規模が縮小することがない、という業果における増殖性の存在原則がある。因果の増殖性は、物質上でもその特性を確認できるが、非物質である精神の場合には特にそれは顕著であり、その増殖性は無限である。小さな悪意や誹謗中傷等による、被害者の被害は甚大であり、正しい判断力を失い自殺したくなるほどの苦しみを与えることは現代社会でもよく見られる。また小さな種から芽が生えて、その結果として、多くの果実が生じることも、因果の増殖性のひとつである。

物質世界の場合には原因となる物質の質量が確定しているので、増殖しても物質的質量の限界はあるが、増殖性があることについては変わりない。たとえば、今回の新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を例に考察すれば、誰にでもわかるであろう。少なくとも日本では今年の一月頃にここまで世界的に流行すると警戒していた訳ではなく、武漢で感染爆発していた時の規模に比べれば、現在自己複製化されたウイルスは圧倒的な数量が地上に存在している。感染症対策として隔離や社会的距離間の維持の有効性については、数百年前から人類は学んで知っているにも関わらず、十分な対策を取れない人為的な要因によって世界的な感染症の大流行が現在起こった。物質としてのウイルスの果の規模の増殖性は、このことからも分かるが、更に物質的なものではない、社会経済に与える影響、人々の精神状態に与える影響は、そのウイルスの増殖性よりももっと恐ろしい。しかし、業果の思想が説くように、ある原因に対して、その結果はその原因よりも質量的に増殖傾向にあることをやめないのであり、原因よりも結果の方が質量的に減少傾向にあることはない、というのが業の第二原則であるので、ウイルスの増殖を阻止するためには、感染を減少させ、ウイルス自体を止滅させていくしかないにも関わらず、それができないのである。このことと同じように、苦の原因となる悪業はなるべく小さなものでも積まないように注意深くしなければならないのであり、善業はなるべく小さなものでもより多く積むようにしなければならない、ということになるのである。

次に第三の原則として、為していない業はその結果が起こることはない、という原則がある。これは別の言葉でいうのならば、無からの創造があり得ない、ということである。「私は何もしていないのにこんなに不幸になった」と思うのは勘違いであり、「不幸になった」という苦の享受を結果として味わう原因があるからその結果がある。もしもそのような原因となるようなことをしなければ、必ず結果も起こらない。これが縁起の思想の根本的な立場であり、仏教の根本思想のひとつである。四聖諦のうちの苦諦(果)と煩悩と業の集諦(因)がそれにあたり、煩悩と業の対治たる意識(道諦)を原因とすることによって、苦を離れた状態(離)である結果たる滅が実現できるのである。この場合にまた重要なことは、自らが味わう結果というのは、他者を原因としているのではなく、自己の業を原因としているということである。「あの人のせいで私は不幸になった」のではなく、「私は過去に為した悪業によって現在不幸である」と考えなくてはならない。何故ならば、他者は不幸の原因そのものではなく、あくまでも「縁」でありきっかけであるからである。

更に第四の原則として、為した業が果を生じないで、自然消滅してしまうことがない、業は必ず果を生み出すという原則がある。小さな悪業でもその悪業が消化されないかぎり、結果を生み出す能力のある業をなくすことはできない。これはその業を行った時から数憶年たとうとも時効によって消滅することもなく、他者の善業を自分が享受するできず、すべて自業自得の大原則を決して逸脱しないというものである。つまりある原因によって生じさせる結果は不可逆的な関係にあり、原因を新規には一切積まなかったとしても、過去に為した様々な業の結果が発生することを退けることができないのである。釈尊の弟子たちのなかには、過去にほんの小さな悪業を為した者が、他のものに比べて阿羅漢果をなかなか得られないという微細な結果があったことを釈尊が指摘したことがあるという経典のなかの逸話にも、この業の結果が時効にならず自然消滅しない、という原則がよく表現されているものである。

以上が業果の四原則であるが、仏法僧の三宝に帰依する、ということは、それらを輪廻の難から逃れるための避難所であり、救済であると考えることであり、それは何らかの行動や言動や思想を自ら変容させて、悪業の異熟した結果である苦を根絶させようとする努力に勤しむということである。三宝への帰依と業果への信解、十善業の実践は、あくまでも死後、悪趣へと転生することを回避したいと願う、下士の志に過ぎないが、単に三宝に祈りを捧げるだけで、悪趣へと転生することを回避することは出来ないのであって、業果の原則に対する知的な信解と、身口意の三門を自ら律する、それぞれの努力が必要となる。そして常に三宝への帰依と業果への信解、十善業の実践への意識が作為的ではなく起こる時はじめて私たちは「下士道へと入っている者」、「下士道を向かっている者」となることができるのである。十善業道というのは実践しやすく簡単なように勘違いする者も多いが、実際に意識的にその善資を積集しつづけている状態を実現するのは、それほど簡単なことではない。俗世間にはそのようなことに無理解な者ばかりであることは確かである。しかしながら、私たちは常に釈尊を感じ続け、その教えが何であるのかを想い出し、何をすべきであり、何をすべきではないと説かれたのか、それは何故なのか、ということへと強く深く思いを寄せ、釈尊という偉大なる船長の率いる船に乗船しなければならない。

釈尊たちが率いている船に乗らなければ溺れて海に沈むばかりである

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