2020.08.03
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

権現仏ではなく本地仏に対して帰依しなくてはならない理由

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第103回
訳・文:野村正次郎

輪廻の濁流の彼岸には渡れない

世間の者を頼りとすべきではない

溺れる者が溺れている者のため

飛込んでも二人とも沈んでしまう

103

私たちは仏法僧の三宝に帰依することによって仏教徒であるといえる。そして三宝に帰依する限り、三宝以外の世間の神々や人に帰依はしてならない。仏教の達成するべき結果とは、一切の苦が寂滅した状態である解脱と一切衆生を利益しながら、如実如量の実相を現証する一切相智に他ならない。しかるにたとえそれを実現することが随分と先のことであろうとも、梵天や帝釈天の境地であったり、神々の棲んでいる楽園を目指してはならない。何故ならば、世間の神々は、無我を現証するこのない世間の天なのであって、無我を現証した出世間の天ではないからであり、その限りにおいて、彼らは輪廻からの解脱あるいは煩悩と業の止滅状態である、滅諦を実現していないからなのである。世間の神々は解脱していないからこそ、再び三界輪廻へと再生しているだけではなく、苦海からの解脱の方法を正しく説くことができないからである。

仏に帰依している限り、梵天等の世間天を信用し救いを求めてはならないし、彼らの像等を礼拝してもいけないし、外道の教祖や悪友を信用してはならない、ということは既に三宝に帰依する限り禁止すべき事項のひとつであることを紹介したが、出世間の者にのみ帰依すべきであり、世間の天に帰依すべきではない、というのは特に護法尊や土地神や龍神などの取り扱いの際に問題となることが多い。

護法尊のなかには大黒天のように観音菩薩を本体として、そこから化身した出世間の者もいるが、彼らの取り巻きのなかには、世間の神々も多くいる。大黒天であれば、ナーランダー僧院の四門を守護する出世間の天であり、ゴマン学堂でも学堂の護法尊とし、護法尊を供養する儀式などを行う場合には、彼の眷属の神々などをも供養している。吉祥天女の供養を行う時であれば、その眷属であるネーチュンなどの護法尊であったり、その取り巻きである世間の諸天に対しても供養を行い、またサンを炊いて開運焼香供養を行う場合には、ルンタ(風の馬)などを含めたチベットやモンゴルやインドの様々な神々に対して供物を捧げている。しかしながらこれらの儀式は、あくまでも出世間の天をその供養対象の中心に行っているのに過ぎず、その周辺のさまざまな神々や龍神などの供養は、あくまでもその供養の一部に含まれているのに過ぎない。これはちょうど人間社会と同じようであれ、ある立派な人物の周囲にはダメな人もいるのと同じで、立派な人物に対して供養を行う時には、その立派な人物の周辺にいるダメな人たちも同じく利益を享受することを妨げるようなことをしないのと同じなのである。

帰依における禁止事項としての世間の神々に帰依をしてはならない、ということは、仏法僧とは何かということを正しく知ることのひとつであると言っても良い。実際には様々な土地神や動物などの姿をとってこの世に現れている諸仏は無限にいるが、その姿として現れている時には、それを礼拝すべきではないのである。これは仏法僧とは何かということを具体的に特定できることが必要であるということに含まれているのであり、三宝に対する帰依を仏教徒か否かという基準とする説と同じくらい四法印を認めることによって仏教の思想を標榜する者かどうか、ということが判断される際にも同じことがいえる。

我が国における本地垂迹説などを考慮するならば、このことは垂迹権化した権現を供養することを退けるものではないが、権現仏ではなく本地仏に対して帰依しなくてはいけないということとなる。この考え方は『沙石集』の時代から我が国にもあるもであり、砂の数どの様々な権化を示現している神々たちの衆生に対する働きかけと我々衆生の側からのそれに対する態度を詳しく綴りながらも、金の如く輝きを放ち続ける諸仏を弁別し、それに対する深い畏敬の念がこの『沙石集』の魅了であろう。

新約聖書のなかの『マタイによる福音書』のなかには、

「彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」

とあるのは、キリスト教でも大変有名な考え方である。すべての宗教はその宗教のなかでの救済の論理があり、それは決して同じものではないし、それ以外の救済の道はない、と説いているのもまたすべての宗教に共通したメッセージである。

今日我々が住んでいる社会はグローバルな社会であるが、このグローバルな社会というのは、それぞれの多様性や差異の存在を認めないという全体主義ではない。むしろ多様性や差異の存在、そして閉じた系と開かれた系との両方の系の両方が適用できる知性が要求されている社会である。すべての宗教は共通のメッセージを発している、ということとすべての宗教はひとつであるべきであるということは全く異なっている。それぞれの多様性や差異などは本来無いものであるという全体主義は、実は完全に多様性を排除しようとする閉鎖的な思考であり、閉鎖的なレトリックであり、様々な軋轢や圧力を生み出すものであることには、警戒心をもって私たちは接するべきではないだろうか。

観音菩薩は泳ぎの得意なライフガードのように輪廻の苦海を見つめている

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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