2020.07.22
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

海がどんなに広くて大きくても、小鳥の飲み水にもならない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第102回
訳・文:野村正次郎

三宝の加持が如何に無辺でも

信心無くしてどう救われるのか

海がどんなに広大であろうとも

水を求める小鳥の渇きを癒せない

102

阿弥陀如来や観音菩薩は衆生済度のための誓願をたて、一切衆生を残りなく極楽浄土へと往生させることや一切衆生のすべての苦しみを取り除く決意をし、そのためにどんな時でも、どんな場所にでも、そしてどんな衆生に対しても等しく無限の大悲心をもって衆生済度の活動を行っている。

諸仏の活動の力は無限であり、その誓願は真実であるからこそ、我々凡俗の衆生はその不可思議な力に疑念をもたず、純粋なる信心によって諸仏からの私たちに向けられている意思を感じ、その強い意思と力を信仰しなければならない。これがすべての浄土思想の根本的な態度である。阿弥陀如来の極楽浄土への往生祈願にしても、薬師瑠璃光如来の瑠璃光浄土への往生祈願にしても、弥勒仏の兜率浄土への往生祈願にしても同じ構造であり、それぞれの如来の御名を聞いただけで、来世にその衆生たちはそれらの如来に摂取され救済される、ということは実際に仏典で説かれることであり、これらは大乗仏教の伝統的教義として間違っているわけでない。

また大乗仏教では「一切皆成」といってすべての衆生には仏性が備わっており、仏になることができることを説いている。仏性は「如来蔵」とも言われており、それは我々の精神がもつ対象を照らし出して理解することができる光明を本質としているものである、という考え方に基づいている。仏教論理学を大成したダルマキールティも心の本質は清浄なものであり、煩悩はあくまでの客塵であるということを説いているし、現代の一部の仏教学者は如来蔵思想と唯識思想を同一のものであるとしているが、如来蔵思想の根本命題である、心性本浄論は、中観派の論師たちも認めるものであり、心性本浄論を否定する大乗仏教の論師など存在していない。しかるにこれらの思想史的な視点を考慮したとしても、我々の心の性質が、諸仏の一切相智と同じ性質を有していることは疑う余地のない伝統的な教義であるといってよいだろう。

しかしながら、これらの教義的な背景がいくらあるからといって、如来が我々を救済してくれるというのは如来の本願であるので、我々は何もしなくていいし、如来は地上に仏教を教えに来る必要がない、我々はただ来世に極楽往生できるので、好き勝手に暮らしていいと考えるのは大きな誤りである。称名念仏にしても信心が必要であることは繰り返し説かれているわけであるし、そもそも如来たちの名号を唱えるにしても、如来たちがどんな存在かイメージつかなければ、称名はただの音響現象に過ぎないことになり、空虚な音声を空中に作り出しているのに過ぎない。街なかで知り合いの佐藤さんに振り向いてもらいたいのならば、その佐藤さんのことをイメージして佐藤さんに聞こえるように呼びかけなくてはいけないのと同じように、ある程度如来や諸仏のことを知っておいた方がよいのである。

たとえば、日本という国は日本国民の生命を守るために存在している。そして治安維持のために警察がいて、ある程度生命を守ってくれているのは確かである。だからといって日本では誰一人として死ぬ人がいない国家に果たしてなるだろうか、と問い掛ければ、それはならない。日本という国家が如何に日本国民の生命を守るためにあったとしても、自殺する人を止められないし、暴力事件や殺人事件がなくなる訳ではない。我々は日本国民で国家が我々を守ってくれるので実にありがたく安心だと思って、税金を払うのをやめればすぐに道は穴だらけになるだろうし、誰も選挙に立候補しなければ、国家を運営する人もいなくなって、国家そのものもなくなってしまうのである。これと同じように仏教で輪廻のはじまりはないが、一切衆生が仏になる輪廻の終わりは有る、というが、輪廻が終わる時は来ない、と区別されているのである。

近年では科学技術に対しての過信や我々人類の高慢さによって、現在の感染拡大の問題は一瞬に解決できないことを我々は思い知らされている。どんなにコンピュータが発展したり人工知能の開発が進んでいても、現在の感染症を明日の夕方からなくすということはできないのである。これは私たちが自分のもっている時間を短縮して何かを行うことができるけれども、他人の時間を短縮できない、ということに依っているのであり、また我々が如何に無力な存在であるのか、ということを教えてくれている。

すべての衆生が極楽往生できるとし、すべての衆生が一切の苦海から逃れることができるという原理が存在している、ということと、そのことを説くために釈尊は法輪を転じられたということはまったく別のことである。今週の金曜日は釈尊が地上ではじめて法輪を転じられた初転法輪の日にあたる。今年からは「体育の日」が「スポーツの日」になり、今年に限り、オリンピック・パラリンピクの開催に合わせて金曜が「スポーツの日」となったようである。スポーツの日の存在意義は、「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」という理念にあるようであり、スポーツをするだけの日ではないのであって、「他者を尊重する精神を培う」ということをする日であるとされている。このようなことからも、今週の金曜日はすべての仏教に関わる人たちは、何故仏教が説かれたのか、この問いに思いを寄せて過ごすのにちょうどよいと思われる。

どんな鳥も決して海の水を飲まない

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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