2020.07.19
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

決して死ぬこともできない、一億年間続いてゆく激痛状態

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第100回
訳・文:野村正次郎

その後一億年を数えながらも

焼かれ煮られても死ねやしない

消石灰の山には雨は途絶えぬので

何劫もの間 常に沸き続けている

100

地獄の衆生に転生した場合、その寿命は大変長い。永遠に続くような気がするようなその長い寿命の間、私たちは地獄の苦しみを味わなければならない。

前偈に示されていたように私たちは、悪趣へと転生する可能性が濃厚であり、そのなかでも地獄へと転生する可能性は非常に高い。仏教や宗教を嫌悪している人たちは、地獄など存在しないだろうし、そのような存在しない場所に生まれ変わることはない、と特に根拠なく信じている。しかしながら、ひとたび仏典を紐解いて、そこに描かれている世界を客観的に分析するのならば、少なくとも我々の死後は悪趣へ転生する可能性が最も高いのであり、悪趣のなかでも最大の衆生の個体数の分布をもつ地獄へ転生する可能性が最も高いということを避けては通ることができない。世界中のほぼすべての宗教が地獄という概念を説いているのであり、それは単なる迷信であるといま行ってみても何もならないだろう。

地獄を考える上で重要なことは、地獄の衆生たちが住んでいる場所である器世間としての地獄の所依とそこに住んでいる生物である地獄の衆生とを分けて考えることにある。前者は場所であるが、後者は生物の種類である。六道輪廻における地獄とは、前者の場所ではなく、後者の衆生のことを表している。

まず地獄に転生する場合には、胎生・卵生・湿生・化生のうちの化生によって地獄に生まれることになる。我々は死を迎えた後に中有の身体をもって、次の身体を探して徘徊するが、人間界に生まれる場合には、受精卵に結生相続して生まれてくるわけだが、地獄に生まれる場合には、化生であるので、生まれてくる苦しみはまったくない。ただし地獄という生物の身体は、苦痛の感受性を最大限にしたものであり、これを想像してみることは地獄道を正しく理解するためには必要なことである。

地獄の苦しみは灼熱・寒冷といった最も強く感じるような身体的な苦痛を最大限にした状態である。この苦痛は外部からやってくるものではなく、決して逃れることができない身体とともにある苦しみであるということができる。

たとえば畜生道の場合には、他の生物によって殺されて食われるという苦しみがあるが、それはあくまでも対外的なものに過ぎないのであり、他の生物によってその苦しみはもたされるものである。また餓鬼道の場合には、水を飲んでも渇きが癒されることなく、食事をしても飢えが癒されることのない、という飢餓による苦痛であるが、これもまた外部の対象と自己の感受作用との関係によって起こる苦しみである。

地獄の苦しみはこれらの畜生道や餓鬼道において起こる苦しみとは、本質的に異なっており、その苦しみは、何かほかのものによってもたされるものでなく、化生によって地獄道に生まれ落ちたその瞬間から、身体それ自体が何もしていないのに極限を超えた熱さを感じ続けざるを得なかったり、極限を超えた寒さを感じざるを得なかったりして、畜生道・餓鬼道のように何か他のことによって起こる苦痛ではなく、その身体をもって寿命が尽きるまで、その苦痛が常にある状態ことにその苦痛の本質の深さがある。しかるに地獄の苦しみを刑務所に入れられて拷問を受けて苦しむよりもはるかに苦しいものである、ということを我々は理解しなくてはならない。もしも刑務所における拷問のような苦しみが地獄の苦しみであるのならば、それは刑務官を買収したりして何とか逃れることもひょっとしたらできるという期待も持てるが、地獄の苦痛というのはそのような外部の何かによってもたらされるのではなく、その苦しみがいつはじまっていつ終わるのか、そしてこの地獄世界にはどんなものがあるのか、ということに注意を払う余裕もないほど、常に激痛とともにある状態を享受し続ける生物、それが地獄道ということになるのである。世の中には様々な地獄絵があるが、それらはあくまでも我々人間が想像して描いたものに過ぎないのであって、実際の地獄はもっと大変であると想像した方がよいと思われる。そして地獄の衆生は、我々の眼に見えるような存在ではないのであり、絵に描かれるような地獄世界はこの世にはないとたとえ楽観視しようとも、激痛のみを非常に長い寿命の間享受しなければならない、という種類の生物がいることは、ちょうどその逆の快楽のみを非常に長い期間享受している天界の神々のちょうど逆の状態の地獄の衆生の存在を考えるのが論理的な思考であると思われる。

かつて釈尊はこの地獄の囚人であった。二人でひとつの車を轢かなかればならないのにも関わらず、相方の囚人は仮我をしており、血が滴るにも関わらず一緒にこの車を轢かなければならないのをみて、この私の相方は何と可哀想なことだ、出来れば私ひとりでこの車を轢いて、この相方は休ませてあげたい、という利他の心が釈尊の心に芽生えたといわれている。これが釈尊がはじめに慈悲心を起こした瞬間であり、その後無量の功徳を積集して、成仏し、そして我々の地上へ降臨し説法を行われたのである。この逸話にあるように釈尊がはじめに菩提心を起こしたのは、この地獄にいた時であった。このことから考えても仏教において地獄という存在が如何に大切なことを教えているかが分かるだろう。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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