2020.07.14
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

小さな穴に籠もるのも、そんなに悪くはないことである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第98回
訳・文:野村正次郎

どんなに賢くて振舞いも立派でも

時の通知人には逆らえず囚われている

大きな川の波間に舞った者たちも

冬が訪れると凍った穴に籠るのである

98

死の無常とはどんな人にも平等に訪れるものである。如何に悪事を極めた人間であろうとも、如何に世の栄華を極めた人間であろうとも、如何に普通に静かに暮らしていた人であろうとも、生きている限り物質的身体は、他の消耗品と同様に次第に古くなり、消費期限を迎えて死んでゆく。

生老病死というものは決して不公平なものではなく、すべての生物に平等あるものであり、どんな人にでも、死期はやっていくるのであり、これを本偈では「時を告げる通知人」と表現している。そして、「必死」であるということを、美しい声で鳴き、天使たちのように踊っていた鳥たちも、人里に出てきて人々を恐怖に慄かせていた熊たちも、冬が来れば小さな穴のなかに入って静かにじっと籠もって眠りつくしかないのと似たようなものなのであると述べている。

仏教は現在の私たちの精神を修練して、仏の境地へと進化していくことを目指す宗教であるが、同時に現在の生老病死を伴うようなこの消耗品のように壊れて行く身体を捨ててゆく宗教でもある。不浄なるこの身体に対する執着を捨て、最終的には清浄なる仏の身体や阿羅漢の身体などを実現することを目指している。

血と肉と骨や皮で出来ている私たちの身体は失われやすく、堅固なものではない。栄養素を常に補給しなければ維持できない大変効率の悪いものであり、衣料品など着用し身体を損なわないように保護しなくてはならない。物質的には外側からの力に大変弱く、また精密機械よりも壊れやすいものであるということができるだろう。神々たちの身体は、これとは有る程度逆の性質をもっており、身体そのものは光沢をもち、衣料品など店で購入しなくても、自ら化作して作り出すことができる。物質的質量としても、非常に軽いので空中を飛行できる。しかしこの神々の身体を得たとしても、寿命が無限にあるわけでなく、死を迎え別の身体を得ないといけないのは同じであるので、このような身体を再び得ること自体を止めること、三界輪廻に再生する必要がない状態を実現することを目指すのであり、これを仏教では、解脱の境位と呼んでいるのである。解脱を得たからといってそこで終りなのではなく、自分だけが解脱しても仕方がないという菩提心によってさらに所知障を断じて仏の境地を目指して行くのである。

我々が目指すべき仏の身体のうち、現在の私たちの身体に代替するものとして挙げることができるのは、報身・応身の二つより成る仏の色身である。報身とは、現在の我々がもっているような身体的な不具合をすべて解消し、三十二相八十種好という特徴を備えており、本体はすべて色究竟密厳浄土に住している。このより衆生済度のために常に応身を無限に化身して、無限の衆生を救済している。

菩薩は菩提心を起こした後、通常は三阿僧祇劫という長期間をかけて二資糧を積集して、仏の境地にまでたどり着かないといけない、という。しかるにいま私たちが意を決して菩提心を起こしても、仏の境地にたどり着くのは、随分と先の長い道のりの行き着く先の話ということになるだろう。仏の境地にたどり着けるまでは随分長く、その間には何度も何度も死なないといけない。しかしながら死ぬこと自体は避けられるわけではないし、死んでまた再生して、また修行を続ければよいのである。

本偈は世を謳歌していたものたちが冬眠せざるを得ないことを、死の喩えとして用いている。これは死とは決して終わりなのではなく、静かに眠りについた後、再び活動するための通過点であることを表現している、とも読み込めるだろう。こう考えてみれば、来世以降のことを思い修行に励むということは、ちょうど冬眠のための冬支度のようなものであり、それは再び春を迎えた時に最大限生きるためのひとつの営みであると考えることができる。

チベットのピカ(ナキウサギ)は冬眠しないが小さな穴に篭ってはいる

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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