2020.07.05
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

もはや逃れようもない、絶体絶命の状態

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第96回
訳・文:野村正次郎

無常の猛獣に捕まっているのに

楽しんで居たいと思うのは正しくない

鋭い鰐の牙の間に挟まれているのに

楽しい時など一瞬たりとも過ごせない

96

想像力が欠けている人は、たとえどんな危機に直面していても、のんびり過ごして、いまはきっとそこまでの危機ではないだろうからきっと大丈夫というように物事を楽観的に考えている。人から人への感染はないと誰かが言えば、その信憑性の薄い言明を信じて、それならその感染症は大丈夫だろうと思って過ごしていた。感染症予防は、検疫・隔離、そして社会的距離感の確保によって実現できる、ということを情報として知ってはいるものの、自分たちはきっと大丈夫だと根拠なく油断し、再び日本でも感染が拡大しつつある。実に人間は愚かな動物であり、人間の欲望が際限ないことをいまの世情は反映している。

しかしながら、前偈にもあったように、私たちは生まれたその瞬間から死に直面している。それは私たちはもはや逃れようもない、絶対絶命の状態にあるといってもよい。本偈ではそれをワニの牙の間に挟まれていて、あとは死ぬばかりの状態に喩えている。

仏道修行の最初の思考訓練として、私たちは死を想像し、死を直視し意識しなくてはならない。そのような思索を行うためには、死を想像しないことの過失を理解し、死を想像することによる利点を思い、その上で正しく死を意識するための心の準備をし、その上で死に対する意識を深めていく。

死という絶対絶命の危機を意識していないことの過失とは、(1)死を想うことはなく、死とは別の方向を考えていること、(2)仏教の修行を行なっても現世利益だけを考えていること、(3)仏道修行を行なっても、後生に役立つほど力が入っていないこと、(4)後生の大事を後回しにし、日々を無為に過ごしてしまっていること、(5)常執によって瞋恚や貪欲などの様々な煩悩を起こしてしまっていること、の五つがあると説かれている。

これに対して死という危機感を意識していることの利点としては、(1)死を見つめることでさまざまな煩悩や悪行から離れ、善業へと向くことができる、(2)死を考えないようにすることがすべての誤りの始まりであり、死を想うことからすべての功徳が生じてくることになる。(3)如何なる行であっても根底に死の想起があることで真剣になる、ということが挙げられる。

死を想起して意識するためには、前もって死に対する恐怖心・それを克服しようとする気持ちを起こし心の準備をしておかなければならない。「死に対する恐怖心」とは何か、といえば、それは「私はこれから死に、この肉体はすべて捨て去って、後生へと転生しなければならない。今生で後生へ役にたつ善業を為すこともなく、悪業をなしてきてしまった」という恐怖心を起こすことである。そして「死の恐怖を克服しようする気持ち」とは、死への恐怖心を克服するため、少なくとも死に往く際に後悔のないようにしたい、という想いを起こすことである。すべての人が思うような「死を迎えるときに愛する家族や友達と分かれなければならない」という苦しみや恐怖を想うことは、死に伴う別離の苦しみであるが、この苦しみを想像することは、仏道修行としての死を意識することではない。何故ならば、それは欲望を増大させ、死の恐怖を克服させるのではなく、増大させるものであるからである。

このような死を意識するための、心の準備ができたのならば、具体的に「死に関する三つの根本命題」である、第一命題「必ず死ぬ」・第二命題「死期は確定できない」・第三命題「死に際し仏法に役にたつものは何もない」という三つの命題を繰り替えし考えなければならないのである。本偈はこの命題のうちの第一命題の「必ず死ぬ」という絶対絶命の状態を表現していたものである。

(c) Parks Australia

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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