2020.07.03
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

私たちは神々よりもよい船に乗っている

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第93回
訳・文:野村正次郎

人という船を得たいまこの時に

聞思修の大漁旗をたなびかせて

生存の大海原を渡るべきである

こんな船は次に得るのも難しい

93

世界の三大宗教のなかで、人間以外の一切衆生という概念をもち、それに対する非暴力や愛を説いている宗教は仏教以外には存在していない。仏教では、幸福な社会というものを構成員として、微生物から人間や神々にいたるまでのすべての生物がその対象に含まれているのであり、私たちが人間としていまここに生まれている、ということが、そのまま希有なる存在であるということを繰り返し説いている。

六道輪廻のうちの人間と神々だけが言語を介し、修行を行い、仏の境地に辿りつくことができる。しかし神々たちは通常そのような修行を行いたいという動機が心に浮かぶことは稀であると言われている。何故ならば、神々たちは永遠に生きることができるように錯覚しており、実際に寿命も長く、快楽ばかりを享受して生活しているからである。彼らから見れば、人間や動物たちは実に哀れな存在であり、醜い姿で、貧しく、知性も感覚もすべてが劣った存在であるかのように見えるのである。人間は空を飛行することもできないし、瞬間移動をしたり、分身を現出することもできない。自分たちの生活の糧は自分たちで賄わなければならず、如意宝珠や如意樹といった特別な道具ももっていない。人間の寿命など長くても百年くらいであり、動物などはもっと寿命が短い。自分たちの棲み家となる家や巣をいくら形よく作ったとしても、所詮はその程度なのである。神々から見た私たちは実に取るにたらない下らない存在なのである。

しかし人間は神々と異なって寿命が一定ではなく、いつ死ぬかも分からず、仏教を理解するのにはちょうどよい存在で有ると説かれている。老若男女、貴賎富貴を問わずに人間には平等に生老病死の苦しみが満ちており、だからこそ四諦を理解して、解脱へと至ることができるためには、逆境ではあるからこそ有利な境涯にあるのである。人生には様々なドラマがあり、苦難や快楽に満ちている。しかし、この浮き沈みの激しい人間というこの船は、神々の乗り物に比べて堅固な乗り物であり、聞思修を繰り返していけば、必ず仏の境地に到達し、一切衆生を救済する活動をはじめることができるのである。

西洋の映画や芝居のなかにも、天使や悪魔たちが寿命が長すぎて、却って不幸であるという物語の描写が時々でてくる。仏教でも長寿天というのは苦しみの一種であると考えられているように、神々は単に快楽を思う存分享受するだけであるからこそ、快楽と苦悩のコントラストがなく、不幸な境涯なのであろう。これは物質的な豊かさこそが究極の幸福であるということではない、ということを教えているものであるとも思われる。

厳島神社では毎年御神体が対岸に赴かれるてまたお戻りになられる日があり、その日は管弦祭といって雅楽や舞楽が船上で披露され、その音響が海の満ち引きとともに変化しつつも、その御座船を囲む、漁船たちが大漁旗をたなびかせ、一年の航海の無事を祈るという大変優雅なお祭りが行われている。

今年は大鳥居も補修工事中であり、また現在の新型ウイルスの状況など様々な状況もあるからか、今年は御神体も社殿に留まられ、外出自粛となるようである。世界では多くの人間の命が失われ、いまもなお新型肺炎で入院して苦しんでいる方々が無数に存在している。今年はいままでよりもなお一層、私たちは一切衆生の安寧を強く祈り、自分たちがいま人間として生きていることの意味を噛みしめながら、静謐のなかで精神生活を営まなければならない時なのであろう。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


RELATED POSTS