2020.06.22
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

他の生物に向けられる慈悲心こそ、砂漠化を防ぐ希望である

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第91回
訳・文:野村正次郎

多くを聞法しても実践しないのなら

自分の心の流れに何ら役にたたない

水のなかに何百年浸していても

岩盤の本質は乾燥したままである

91

岩石を何百年水に浸しても、表面以外が湿気を帯びるだけで、内部まで水気を帯びることがない。同様に仏教は、どんなに多くを聴聞しようとも、それを実践していないのならば、自分の精神生活には何ら役に立たず、ただ伝授を受けただけということになる。もちろん諸仏からただ伝授を受けるだけで功徳がない、ということではない。

ただ説法会や灌頂会に参加するだけで、心にわずかでも変化が起こることを加持の力という。しかしその加持の力というのは、ほんの一瞬に過ぎないのであって、私たちの精神生活に何ら役にたたないのである。

これは「法が法とし成る」「法が法とし機能している」という表現でよく語られているものである。仏教を知ることは情報として知ることではないのであって、ひとつひとつの言葉を自分の問題として真摯に受け止め、その言葉にしたがって自らの行動・言動・思考を改善し機能している状態を実現しなくてはならない。このことは『菩提道次第広論』では『三昧王経』の次のよう偈頌を引用して説明していた。

私がどんな如何に円満なる妙法を説いたとしても、あなたはそれを聞いて、それを正しく実践しないかもしれない。しかしそれは病人が薬の入った鞄を背負って歩いているだけで自分の病が治らないのと同じことなのである。

また『入菩薩行論』でも、

これらを行動で実践すべきであり、言葉だけ語って一体何となるだろう
処方箋をただひたすら読んでも、どんな治療効能があるというのだろう

と説かれているように、聞法をする者は、自分は病人であるという意識をもち、説法をしてくれる善知識は医者であり、医者が与えた処方箋を集めるだけでは意味がなく、実際に医者の診察や処方箋に基づいて、自ら煩悩という病の治療行為に励まなくてはいけないのである。そして治療行為もすぐに効果が現れるものではなく、何度も繰り返して継続的に治療に励む必要がある、ということを『菩提道次第広論』などでは何度も説かれている。

このことに関していえば、以前ダライ・ラマ法王が宮島で説法をされた時に「空や無我の真実を理解しているのに、慈悲深く思いやりを持てない人がいるが、それは何故なのか」という質問をある大学教授がした。法王はこれに対して「それはそもそも空や無我を理解していないはずである。もしも空や無我を理解しているのならば、一切衆生の苦悩を必ず理解しているはずである」と答えられていた。

縁起や空を理解している、ということは、それを理解していない知である、無明の知がどのような知であるのか、ということを正しく確認し、その知が誤って思い込んでいる人我・法我が存在しない、それが存在していると思っている知は誤っていると理解しなくてはならない。この無明の知は、無始以来すべての衆生に共通の生まれながらにしているもっている自意識であり、その自意識によって利己主義は生まれ、そこから一切の煩悩と業が生じている。この状態を自分の問題として、理解していなければ、その逆の命題である空や無我なども理解できないだろうし、正しい空や無我の理解があるならば、それが理解できないことによって、三界輪廻を徘徊する衆生たちの耐えがたい苦悩を推察できるはずであり、苦しみを減らすことに少しでも寄与しようとし、自ずから自ら悪業を退け、善業を実現しようと努力するのである。このことをダライ・ラマ法王は教えておられた。

近現代は物質文明の発展の至上主義のような傾向がある。たとえば宗教や哲学や芸術といった人間が作ってきた精神的な遺産も、情報やデータ、物質として取り扱う傾向にある。人間が生まれて死んだら、役所には出生届と死亡届が届けられて、税の徴取対象になるだけであり、その人がどんなやさしい人なのか、どんな悪い人なのか、何をもとめ何をしようとしたか、といったその人を構成する本質的・精神的な価値は、そこにはそれほど必要のない不要なデータの一種として取り扱われる傾向にある。近年では仏教学者たちの間でも、人工知能が衆生たり得るかのかどうかとか、機械学習によって新しい研究ができるのかどうかなど、実に不毛な議論をしている者たちすらいる。物質至上主義者たちは残念ながら物化したものの価値にしか心を置くことができないのであろう。

しかし物化したものたちは、あくまでも物に過ぎないので、壊れる運命にしかない。方便と智慧との合体したものは決して壊れることのない「不滅金剛」とも呼ばれている。私たちはひとつひとつの教えを実践することで、決して壊れることのない、不死の甘露で心を潤して、法の灯火を灯していくことができるのである。


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