2020.06.21
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

渇きを癒してくれる一杯の水のように

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第90回
訳・文:野村正次郎

すべての法を一度に知っていなくても

知る限りのもので有意義なものである

河の水のすべてを飲み干さないけれど

飲んだその限りで渇きは癒えるだろう

90

釈尊の教えは、明瞭簡潔なものから、甚深広大で難解なものまで様々がある。どんな人であっても、釈尊の説かれた、すべての教えを知ることなど出来ないし、網羅的にすべてを学ぶことが重要なのではない。むしろ仏教を網羅的にすべて学ぶことができるということは有り得ない命題なのであり、そのような考えをもつこと自体が間違っていると考えなければならない。何故ならば、仏教では伝統的に現存している情報はごく一部の限られたものに過ぎない、ということを説いているからである。

釈尊の教えは、私たち人間の地上で説かれて仏典結集によって結集されたもの以外にも、多くのものが存在していると考える必要がある。どんなに学問を研鑽しようとも、地上には存在しない経帙なども存在している。さらに諸仏の説法とは、小さな原子にも無限に存在している諸仏によって行われているものであり、それは今日もなお継続して行われているものであると考えなければならないのである。

現在進行形で行われている説法のなかには釈尊とは別の心相続の仏もいるだろうが、釈尊と同一の心相続の化身仏も無数に存在しているのであり、当然であるがそこには説法の所化となる無限の聴衆がいる、ということになるので、現在もなお釈尊の教法の活動は継続しているのであり、説かれる教えは、常に増広し続けている、と考えるのが大乗仏教の伝統的な仏身論に基づく推測ということになるだろう。

とはいえ、少なくとも現在の私たちには、現在進行形で行われている説法を聴聞することは至難の業である。だからこそ仏典結集によって結集され、現在釈尊から連綿と続く教えの一部のみを享受し、そのほんの僅かな一部だけを学んでいると考えなければならないということになるのであり、いま私たちが出逢うことのできたその教えのひとつひとつが、非常に確率論的に低い確率によって、我々が触れることのできたものであるということになる。しかしながら、ブッダの教えのすべては衆生を利益するものであるので、我々が出逢うことのできたこののほんの僅かな一部の教えのひとつひとつを真摯に受け止めて、それを自分の思考のなかで咀嚼し、その教えの目指すことを実現していかなければならない。ひとつひとつの教えを真摯に受け止め、ひとつひとつ理解するということは、実はそんなに簡単ではない。

たとえば不殺生や不偸盗といったことであっても、具体的にどのような事例において、どのような罪業になるのか、罪業を慎む行為である不殺生や不偸盗という行為は、具体的に何故善業であり、どのように現れるのか、これらのことを考えていけば実はかなり複雑な状況をも想定しなければいけないことになる。

不殺生や不偸盗は、刑法や民法の運用状況と照らし合わせ考えると理解しやすいだろう。素人の我々が、一般に公開されている刑法や民法の法律の条文の文字面を理解したからといって、複雑な法解釈ができる訳ではない。現在の法曹界ですら、過去の判例と対照をしながら、法を執行し、法を運用している。世俗の法である刑法や民法ですらその運用は簡単なものではなく、たとえば司法試験に合格した者がすぐ次の日に最高裁判所の裁判官になれる訳ではないように、法の執行や運用には深い経験や知識や良心などが要求される。

世俗の法である刑法や民法ですらそうなのであるから、仏教で説かれている法の執行や運用というのはもっと大変なものである、仏法の対象は、過去・現在・未来の一切の衆生であるので、その運用事例を考えるだけでも途方もない数の事件を想定しなくてはならないのである。仏法の執行や運用には、世俗の法よりも遥かに深い経験や知識や良心などが要求されるのは間違いないだろう。

世俗の法では、刑法で殺人は犯罪であると定義され、罰則が定められ、法が正しく運用されている限り、ある日突然道を歩いていて刺されて殺されたり、横断歩道を渡っていて車に轢かれたりしないという恩恵を私たちは受けている。法の存在自体が、我々に対して有意義な結果を与えてくれているのである。

同様に仏教において衆生利益を目的として説かれ、私たちが出会える限りの教えのそのすべてを真摯に享受し、その内容をよく咀嚼し、完全に理解出来なかったとしても、知る限りのもので、私たちは諸仏の衆生利益の仏業に護られてあり、利益されている、ということになる。しかるに、すべての教えに出逢うことができなくて、たとえすべてを完璧に理解できなくても良いのだろう。むしろすべてを望むことを止めて、出逢う限りのもの、知れる限りのそのもの、あるいは、既に知っているはずのこと、知っている限りのそのものが、無限の意義をもっているということに気づくことが大切なことであり、それが私たちが出会う仏法ときちんと向き合うことなのではないかと思われる。

全人類を幸福にしたいと望むのならば、まずはもっとも身近にいる困った人たちとの出会いを運命的なものであると考えて、その人たちを何とか助けることに努力しなくてはならないだろう。これと同じようにブッダの教えに触れ、成道を目指すのであれば、まずはひとつひとつの出逢うことのできた教えを真摯に受け止めて、それを有意義なものとしていく必要がある。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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