2020.06.18
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

大海原を航海しようとする時は、船長の言葉に従わなければいけない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第87回
訳・文:野村正次郎

法の道へと進もうとする時には

はじめに善知識に師事すべきである

大海原を航海しようとする時には

はじめに経験豊富な船長を探すように

87

本偈は仏門のはじまり、法門のはじまりに、まずは善知識に師事する必要があることを表現するものである。大海原を航海しようとするときに、さまざまな航海の経験に富んで、どんな時でも冷静沈着な知性のある船長を探さなければ、航海の途上で難破してしまう危険性があるように、仏教を学んで実践しようとするのならば、まずは師となるラマを探さなくてはならない。このことは『菩提道次第広論』などでも詳しく説かれるものでもあるし、インドの律に関する文献でも、密教に関する文献でも、同じように師事作法は、仏教の実践の最初にあたる大変重要な実践法のひとつである。

善知識や師に師事するというのは、もちろん特定の師匠となる人と社会的な関係をもつということも含まれているが、仏道修行の最初としての師事作法というのは、もう少し深い教義そのものであり、あくまでも身口意の三門によって師事するということを表しており、善知識に師事すること自体が善業そのものである。しかるにこの善知識に対する師事というのは、物理的な現象世界の出来事ではないのであって、精神的な営みであり、善知識に対しての師事の加行、すなわち動機付けの精神的営為と、善知識に対する師事の本行である師に対する思いを巡らせる精神的営為との二つの精神的営為によって構成される。

密教の修行のひとつとしても、自分の師を釈尊と不二なる存在として観想し、師資相承の諸師を観想し、それに対して礼拝・供養・懺悔・随喜・勧請・祈願・廻向という七支分よりなる法行を行い、師に対する崇敬の念を深め、師に対する不敬の念を断つことによって、己の罪障は浄化されるということが道次第論などでは詳しく説かれており、特に密教の実践においては、師と弟子との間に契約事項である三昧耶が発生するので、師に対する供養を行うことは、極めて重要なことなのである。だからこそチベット仏教では、かつては「ラマ教」と呼ばれることがあったくらい、ラマ/師というものを大切にしなくてはならないのである。ラマ/師に帰依をするということは、具体的に自分との関わりの私的な時間において行われる精神的な営みであり、ラマ/師の長寿を願うことは、自分を精神的に導いてくれる指導者の指導が続くことを切望することでもある。

善知識に対する師事の思いには、昨年度にゴペル・リンポチェの法話会でも紹介されたように、『華厳経』などで九種類の思いを培うように説かれているのであり、決してチベット仏教に起源を発するものではない。そもそも仏教は釈尊を師と仰ぎ釈尊の教団に入り、解脱やブッダの境地を目指すことからはじまった宗教であることから、師僧を敬い、師僧に奉公することは、釈尊の時代からあるものであって、師弟関係を封建社会の名残であるといって批判する研究者もいるが、それは仏典に対する教養不足な利己的な発言に過ぎないだろう。

師とは如何なるものであるべきか、弟子とは如何なるものであるべきか、その弟子がその師にどのように師事する思いを培うべきか、これらのことを『菩提道次第広論』では詳しく説かれていた。これと同じような趣旨のことは、日本の仏教にも繰り返し説かれているので、すべての仏教に共通する重要な仏教の実践であることは確かであろう。

残念ながらいまはインドとの往来もできないので、法話会はすぐには再会できないが、これまで法話会に来られていた方は、そこでどんなことが述べられていたのか、ということを再び考え直すのにはいまの状態は決して悪くはない時間である。

筆者を含めて、本記事の読者には、ダライ・ラマ法王から伝授を受けた者も沢山いるだろう。ダライ・ラマ法王は常に三つの使命があるとおっしゃってきた。それは、(1)ひとつはすべての人類をひとつの家族として考え、この家族の幸福に我々ひとりひとりが責任をもっている、ということ。(2)すべての宗教は人類の幸福を目指しているものであり、思想や実践法には個別の差があっても、調和と協調、連帯こそが必要であること。(3)チベット人として、チベットの問題の解決に責任があり、外国の自由な国に住んでいる我々日本人にこの問題の解決のために、理解と協力をお願いしたいこと。

この数年間はそれにさらにもうひとつの使命を追加され、(4)古代インドの精神文化をインドの地において復興し、それを科学的な追求と相互に連携し、人類の更なる精神的な発展を目指すことである。

私たちは何度も何度も法王が強調して説かれてきたこの大切なことをどれだけ真摯に受け止められているだろうか。それを自問自答するたびに、私たちはいま何をなすべき答えは自ずから明らかになるのではないかと思う。

この四つの使命以外にもダライ・ラマ法王はいつも法話会のたびに、テキストを配布し、それを家に帰っても何度も何度も読み、自分自身で考え、同じ釈尊の弟子として責任ある人間になるように教えてくださってきた。仏教とは祈りだけでは不十分であり、仏典を読み、考え、議論することの大切さも説いてこられた。私たちはそのような教えをこれまで聞いてきたが、果たしてどれだけの人がその教えを自分の人生に活かせているだろうか。最近ダライ・ラマ法王が「日本人はあまり仏教の実践に関心がないようだ」とダメな仏教徒の例としてお話のなかで日本について言及されることがよくある。

ダライ・ラマ法王は日本人に対して「もっと英語を勉強しましょう。もっと世界のことに目を向けましょう」と何度もおっしゃり、「もっと仏典を勉強しましょう」と何度も説かれてきた。そしてそれは日本人のためになることであり、我々のためになることである、ということも繰り返し説かれてきた。日本人は衛生的でどこも綺麗に掃除されていて、時刻通りに電車が来ること以外にも、ダライ・ラマ法王に褒められるようなことをもっと実現できてゆけばいい思われる。

ゴマン学堂の僧侶の方々は、日本からインドにお戻りになると弟子たちに日本人はこんなにいいことをやってると弟子たちを叱る時によく例に出してくださっている。そろそろ我々もチベットの先生たちに教えていただいたことをもう少しずつ実現していければいいなと思われてならない。そしてそのような精神的な営みこそが、ダライ・ラマ法王たちに師事するということにほかならないことを本偈は教えてくれている。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


RELATED POSTS