2020.06.17
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

欺かないもの、これが真実の定義である

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第86回
訳・文:野村正次郎

知力なく不運な者は深遠だとの

評判に欺かれ道を誤ってしまう

陽炎を水だと見誤っている

鹿は意味もなく苦しんでいる

86

欺かないもの、これが真実の定義である。欺かないというのはどういうことか、ということかといえば、知に顕現するものと、実際に存在しているものが一致していることであり、顕現している通りに存在するものは、それを求めるならば必ず得られるものであり、真実であると言われる。これに対して知に顕現しているものと、実際に存在しているものが不一致である場合には、それを求めても得られない。つまり知が欺かれている状態にある。顕現している通りには存在していない、それらのものは虚偽であると言われる。

真実と虚偽は完全に二項対立者であるので、真実でもありかつ虚偽であるものというものは、存在しない。しかるに真実を見ている知と虚偽を見ている知は、同時には存在することはない。しかるに虚偽を見ている知は、真実を見ている知によって退けることができる。

その代表例は我執を無我の証解によって退ける場合を挙げることができるだろう。我執はすべての煩悩の根源にあるものであり、それを退けるものが無我の知見である。仏教は煩悩とそれによって生じる業を無我の知見によって断じて、煩悩が再び起こらないようにしてすべての煩悩を尽くして解脱を得ることを目標とする。だからこそ、無我の知見こそが、道・解脱道と呼ばれる。

陽炎は逃げ水ともいわれるように、それを追って何処まで行こうとも水には辿り着くことはない。喉が渇いた鹿たちがどんなに速く追い駆けても水を得ることが出来ないので、喉の渇きが癒えることはない。しかるに陽炎の水は知に水として顕現している通りには、存在しないので、虚偽であるのである。

真実と虚偽を考える上で重要なことは、インド・チベットの仏教においては実在する認識対象と不可離の関係にある別の側面から見た実在する認識対象であって、観念ではないということであろう。陽炎や逃げ水は虚偽なる実在する対象として存在しているので、逃げ水は虚偽である、という言明が可能なのであって、真実と虚偽の両者はリアルに存在している事実/真実の力によってそれが正しく確定することができるものである。

正理や論理と呼ばれるものもまた実在の現象とは無関係な観念論や言語論なのではなく、事実として現象しているものの側にあるものを指している。これは空性や無我にしても同じことであり、空性や無我というのは観念なのではなく、実在する現象にほかならない。厳密に言うのならば、空性とは非実在という意味なのではなく、顕現している通りに存在すると期待されているそのものを欠いているということに他ならない。

しかし残念なことに、インド・チベット仏教のコンテンツを翻訳している人たちのなかには、この問題について深く追及したことがないからだろうか、すべての現象は実体として存在していない、ということを空性や無我であるかの如き翻訳を行なっており、著名な仏教学者と呼ばれる人たちの多くが「真実・虚偽」という言葉と「実体・仮設」とをほぼ同義であるかのような訳文を付している。

しかしこれはインド・チベットにおける真理論について哲学的分析や思考を充分に検討した結果とは言えない。しかしそのことを責めても仕方がないだろうし、そもそも釈尊が説法を躊躇したくらい真実とは、甚深なるものであり、時に凡人にとっては真実は残酷なものであり、受け入れ難いものであることも事実であるので、著名で多数の意見であるからといって、不必要にその評判に踊らされて道を迷う必要もないこともまた確かなのであろう。

「すべての有為は無常である」ということは、同時に「私たちは常に死につつある」ということであり、私たちには明日もまた今日と同じように明日がある、という虚偽を幻想しているだけであり、明日は来ないかもしれない、ということが真実である、ということを説いたものである。

だからといって、今日の夕方上司に「今日もお疲れさまです、明日も頑張りましょう」と声を掛けられたからといって「お釈迦さまもいってますが、すべては無常ですから、明日仕事するかどうかなんて分かりません。そんなことも分からないほどあなたは知性がないんですか。」等と上司に告げるのは話がややこしいことになるので、やめておいた方がよい。

もしも強い無常観を心に抱いており、「明日も仕事するかどうかは分からない」と今日考えているのならば、「明日はこの仕事をやる予定にし、明日も努力したいと思います」と言葉遣いに気をつけ虚偽にならないように慎重に言葉を選べば良いだけのことなのである。「予定」はあくまでも予定であるので、明日もしも朝起きた時に死んでいたら、それは「不測の事態」が起こっただけでなのであり、そのことは「予定していないこと」なので仕方がない。

この無常という真実からも分かるように、真実・虚偽への探究というのは、あくまでも私的な孤独な思索の問題である。だからこそ、それは社会的なものでもなく、他人の意見の多数決によって左右されるような営みではない。真実を知るということと、真実を他人に告げるということはまったく別の問題である。多数の意見をもって真実であるとし、少数の意見を断罪することは良くないことであることもまた真実である。

真実を探究する者は、本偈でも表現されるように実は幸運な者なのである。彼らはインドの言葉では「瑜伽行者」(ヨーギン)とも呼ばれて、真実との結びつきをもって生きている人たちのことである。その幸運と知性は、慢心し自慢するためにあるものではなく、私的な孤独な思索のなかで運用し、求められれば慎重な言葉によって他者に告げていき、真実を開示していくといった優雅な運用方法が相応しい。真実の探究はあくまでも個人的な孤独な思索の営為であるが、だからといって決して孤独なのではない。諸仏の加護があることはもちろんのこと、同じく真実の探究を志す仲間たちもいる。そのような仲間たちにも恵まれることで、私たちは正しい道を模索していくことができる幸運な運命をもっている。

デプン・ゴマン学堂のゲシェーの最終問答のお披露目会では、級友たちで学堂の僧侶全員に感謝の意を表明する

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


RELATED POSTS