2020.06.15
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

諸仏の言葉が記された仏典の継承者であるということ

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第84回
訳・文:野村正次郎

然し時が経ち濁り果てたものを

文殊大師は澄明に顕彰なされた

海中へ捨てられた四種ヴァーダは

魚の姿に変化して救出されたように

84

本偈は文殊大師と呼ばれるジェ・ツォンカパがインド・チベットの仏教の伝統をよく復興し、教学体系を清浄なものとして、釈尊の教説が五濁悪世によって堕落していたものを再び透明で澄んだ輝きのあるものとして再解釈した、ということを述べている。

ヴィシュヌ神が様々な姿に変化して活躍する話は、古代インドの神話に様々に伝えられているが、ここではヴィシュヌ神が第一の変化身であるマツヤという魚の姿に変化した時の逸話をツォンカパの行状に擬えて表現している。このマツヤの変化とは、まだ世界が創造されて間もないころ、ビジュヌと戦って敗北した阿修羅は、ヴァーダ聖典を遺棄し、自らは貝の姿で身を潜めていた。世界の守護者であるビシュヌはこれを退治するために、魚の姿に変化して阿修羅を殺害し、海水のすべてがその血飛沫で真っ赤に染まったが、ビシュヌは人間を大洪水から救い出し、人間とヴェーダ聖典は、無事に守られたという古代インドの神話に喩えている。

ヴェーダ聖典は、インド最古の文献群のことを表しており、特定の作者が書いたものではなく、「リシ」(Ṛṣi)と呼ばれる仙人たちの言葉を集めたものであり、天界に対する祭式の祭詞を集めたものである『ヤジュル・ヴェーダ』(Yajurveda)、世俗的な祭事や様々な呪文を集めたものである『アタルヴァ・ヴェーダ』(Atharvaveda)、神々へ賛歌を含め哲学的思惟に至るまでのインドの宗教・哲学の基礎となっている『リグ・ヴェーダ』(Ṛgveda)、神々へ賛歌をさらに韻律や旋律などをも含んだ朗詠を集めたものである『サーマ・ヴェーダ』(Sāmaveda)の四種類のヴァーダがある。これらの詳細や内容については、我が国では辻直四郎氏による『リグ・ヴェーダ讃歌』『アタルヴァ・ヴェーダ讃歌』(翻訳・岩波文庫)『ヴェーダ学論集』(岩波書店・1977)などを参照していただくとよいだろう。

本偈ではヴェーダ聖典がビシュヌ神に人間界の聖典として救出されたという故事が用いられているが、これはツォンカパが特に仏典を学ぶ、という伝統を極めて重視し、それを実践し、様々な仏典を学び研鑽する者としての、厳格な戒律主義に基づく、顕教・密教の伝統を復興した、という功績に思いを寄せるものである。チベットの仏教の歴史は、仏典という書物の伝承者としての、修行者という僧侶たちの位置づけが伝統的になされており、その書物の伝承者であることを、どれだけ真摯に実践し、一部の書物だけではなく、仏教全体の書物に通じ、仏典を縦横無尽に有機的に再構築した人間こそが、時代をつくっていく傾向にあるといってよいだろう。

この伝統は、インドにおける婆羅門がヴェーダ聖典を暗唱し、それを弟子たちに継承していく姿そのものである。もちろんテキストはヴェーダ聖典ではないが、テキストの継承者ということが宗教家であるということと同義のように扱われていることは同じ現象であるといってよい。歴史的にみても、チベットに仏教を伝えたシャータンタラクシタに端緒を発し、後伝期に復興したアティシャ、さらにはサキャ・パンディタ、ロンチェン・ラプジャンパ、ミラレパ、プトゥン、ツォンカパ、カルマパ、といった学者たちの残した学問は、すべてインド仏教文献の継承者としての学問僧であり、仏典の学習を怠ったり軽視して、活躍したものなどほぼ皆無であるといってよい。

チベット仏教では、インド由来の仏典を学ぶ、ということが極めて重要である。ジェ・ツォンカパも希有なる法力で文殊と対話したが、その内容は仏典をきちんと読んで考えれば自然に正しい理解に達するであろう、と叱責されたというのは有名なツォンカパの伝記の一幕である。ゲルク派の僧院では、現在も五大聖典を手がかりとして、何十年もかけて仏典を学んでいる。そしてその仏典の継承者としての読みと解釈、洞察を深めるために問答をしたり、議論をしたりして仏典を究明しようとしている。

チベットの人々にとって宗教者とは、一般大衆に何か儀式をしてくれるための人材なのではない。ひたすら釈尊や祖師たちの言葉と真摯に向き合い、それを自らの人格形成、思想形成に役立てようとしている希有なる存在である。こうした伝統が生きた形で現在も継続しているのは、チベットの仏教以外には、あまり見られないといっても過言ではないだろう。

もちろん森のなかで滝に打たれて修行をしたり、一般大衆の心の救いを説いて回ることは大切なことではあるとは思う。しかし、それは本来の仏教の修行のあり方として、どれだけ釈尊の意向を汲んだものなのか、というと疑問を感じざるをえない。チベットの僧侶たちがどれだけの仏典の継承者になれるのか、ということが最重要な関心事であるように、日本の僧侶たち、そして我々のような在俗の人間であっても、どれだけのリアリティをもって、私たちの思考のなかに釈尊の言葉が生きて響いているのか、ということを問いかけることは、極めて重要なことではないだろうか。私たちが心のなかに仏典の言葉をリアリティをもって維持できる、ということ、それは心に諸仏の救済そのものをもつことに他ならないと思われる。

チベットの仏画に描かれる翻訳官・祖師・施主である王たちは、仏典を手にしている

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