2020.06.13
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

私たちは心のなかに、正法の灯火をともせるのか

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第82回
訳・文:野村正次郎

七種の水のなかで最高のもの

その源は雪に帰しているように

不迷乱で過失のない正法もまた

勝者の言葉に帰すものでなければならない

82

本偈は所謂、仏教論理学の根本命題である「世尊が量である」ということを検証することの重要性を説いたものである。我々仏教徒は、まずは釈尊の言葉に自ら真摯に向き合って、釈尊の言葉こそが正しい基準となるものであるということを理解していなければならない。

インド・チベットにおいて、飲料水として利用できる水には、雨水、雪水、河川の水、池の水、井戸水、炭酸水、樹木の根より得られる水の七種がある。これらの水のうち、良質な水のすべての水源がヒマラヤ山脈の万年雪に帰している。これと同様に、仏教にも様々な教えが説かれているが、それらのなかで私たちが正しいもの、それを実践しても問題がないと考えられる基準としては、その教えが釈尊の言葉に由来しているものである、ということがひとつの基準として設定されなければならない、ということを本偈は説いている。

そもそも私たちは釈尊の言葉を正しいものとし、それに従って究極の目的である解脱や一切智の境地を実現して、究極の幸せを実現するために、仏教の実践をするのである。つまり私たちの幸福や希望が実現するかどうか、というのは正法に依存することとなる。

しかしながら、正法そのものに対する信仰心や信頼もなく、たとえあったしても盲目的に仏教に関係したことならば何でも妄信し、正しい法と正しくない法とを峻別する知性をもとうともせず、どんなものでも無批判に受け入れてしまうことは良くないのであり、それはちょうど犬が餌を食べるようなことである、と言われている。

サキャ・パンディタもまた、

馬や宝物等の些細な取引に臨む時
みなに質して分析して価値を検証する
今生の小さな仕事に望もうとする時に
そうした努力をすることはよく見られる
衆生たちが永遠の希望を実現するために
正法に依存しなければならぬにも関わらず
あたけもこの法を犬の餌のごとくに
見出す限りのすべてを敬ってどうなるだろう

と説いているように、私たちは仏教を実践するにあたり、自分が採用する行動・言動・思考の基本方針を、釈尊の言葉に由来するものに依存しなければならないのであり、そこに依存する上でも、その言葉が本当に正しいものなのか、多くの助けとなる先輩や善知識の助言に従いながら、それぞれの個人が釈尊の言葉に向き合って、その上で釈尊の説かれた教義を検証し、論理的・哲学的な分析・検証を繰り返した上ではじめて、真の信仰を得ることができるのである。そしてこのようなスタイルによって、仏教という精神文明を受容できるもののことをダライ・ラマ法王は「二十一世紀の仏教徒」のあるべき姿であると繰り返し説かれている。

菩薩が依存するべき四つの依りどころとは「人に依らず、法に依りなさい」「言葉に依らず、意味に依りなさい」「字義通りではない再解釈が可能な意味(未了義)に依らず、字義通りで再解釈不能な意味(了義)に依りなさい」「無我を現観しているかどうか分からない知に依らず、無我を現観する智慧に依りなさい」の四つである。これは個々の実践者がここの知性と能力を最大限活用し、自ら釈尊と対峙し、その教えの内容を分析検証し、その結果、釈尊のこの教えは不迷乱な教説であるという確信を、各人が自らの精神に引き出してはじめて、諸仏の教えは私たちの心のなかで正法の灯火となれるのだろう。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


RELATED POSTS