2020.06.12
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

煩悩障・所知障の二障を断じた、一切相智の正等覚ブッダの境地へと道を進めてゆく

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第81回
訳・文:野村正次郎

世間の梵天の垂髪を流れる

恒河に彷徨う旅を終えた後

二障の垢を洗い清めるために

正法の道へと導いてゆきたい

81

本偈は前半で説いた、業報思想や三宝への帰依しながら世俗的な営為からさらに進化して、解脱と一切相智という仏教の説いている宗教的な営為とは如何にあるべきか、ということをこれから述べていきたい、という前半と後半を連接する句となっている。

現在のガンジス川、すなわち恒河は元々は女神ガンガーを、人間の王が梵天に頼んで地上に降下してもらい、自分の家族の先祖を供養し、悪業による罪障を浄化するために人間界へと招いた者であることは、以前の記事でも紹介した(リンク)ので、ここでは割愛するが、女神ガンジスの水で沐浴することによって、過去世の罪障が浄化されると考えるのは、あくまでも世間的な信仰に過ぎない。仏教以外の宗教では今日でもその信仰はいきているが、神々を供養したり、苦行をしたり、ガンジス河で沐浴したり、火天に対して護摩供養を行うことなどによって、来世に天界に転生することを実践するのは、これはあくまでも世間的な儀式に過ぎないと仏教では説いている。

仏教ではたとえ人間界や天界に生まれることだけでは三界輪廻の苦海からは解脱することはできず、解脱を実現するためには、煩悩障を断じなければならない。煩悩障を断じるのは唯一無我を現観する智慧によってのみ断じられるのであり、無我を現観しない限りは、煩悩障を断じることができず、再度三界輪廻へ煩悩と業によって転生せざるを得ないということになる。無我を現観した後は、出世間と呼ばれ、世間を超越した存在であるが、剣道・修道において煩悩障を残りなく断じたのならば、輪廻から解脱できるのであり、それは阿羅漢果の境地と呼ばれる、絶対的な楽の境地となる。

しかし煩悩障を断じただけでは、単に輪廻から自分自身は解脱できるが、寂静涅槃といってただ一人孤独に寂静のなかを住処とするに過ぎないのであって、一切の衆生を救済することはできない。一切衆生を苦海から救済するためには、無住処涅槃の境地を実現し、成仏し、一切相智を得て、無限の一切衆生を常に救済できる境地に到達しなくてはならない。この一切智を得ることを妨げるもののことを「所知障」といい、仏の境地というのはすべての煩悩障・所知障の両方を断じた境地のことを指している。

本偈以降では、この二障害を断じた仏の境地を目指すための、これからそれらの道程を示しているのであり、本偈以降はその二障を断じるためにはどうしたらよいのか、ということをこれから示そう、というのが本偈の主旨である。

巡礼者たちがカイラス山を目指すように、私たちは二障を断じたブッダの境地をさらに目指してゆく

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