2020.06.10
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

純然たる善なる動機をもつことの大切さ

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第79回
訳・文:野村正次郎

善なる意志をもつのなら

世間の行もすべて正法となる

水車を使えば低い溝の水でさえ

高い山の頂まで運んでいける

79

本偈は、チベットの仏教に私たち日本人が触れるとき、何度も何度もチベットの僧侶たちが語る純然たる善なる動機の大切さを説いたものである。ジェ・ツォンカパの「よき志をもつのならば、地も道も良きものとなる」という大変有名な言葉とも通じる一偈が本偈である。これは、あるひとつの業が行われる際の加行分である動機というものが、その業の性質を左右しているという業報思想の基本的な教義に基づく命題である。

世間の老若男女を問わず、すべての行動や言動や思考法のどのようなものであれ、もしもそれが絶対的に善なる意志をもって為されるのなら、どんな日常の些細な仕事であっても、どんなものでも法に適ったものとなる、つまり善業となる。今日という一日の日がどのようなものとなるのか、課せられている実務を行う場合であろうとも、部屋を掃除するという小さなことであろうとも、どんなことをするにしても、善なる意志をもって行うのならば、その小さな作業は法の実践へと昇華させることができるのである。

ここで「善なる意志」と言われるものは、これまでにも多く述べてきたような、自己中心的なものではなく、純然たる利他を目指すもののことであり、特定の個人や集団、特定の社会や生物などに限定されたものではなく、すべての人類、すべての集団、すべての生物に利益をもたらしたい、という意志であり、その意志に従って非暴力の営為を実践したいという他の衆生との関わりに臨むときの動機のことを表してる。しかるに誤った考えによって特定の集団のために、他の生物を殺傷するとか侮辱するというような行為は、動機も善なる意志とは言えない。煩悩によって動機づけられた「あの人に良かれと思ってやったこと」というのは決して「善なる意志」とはいえない。それは偽善になってしまう可能性もあるのである。

したがって、善なる動機をもてばすべての業は善業となる、という実に当たり前で誰でも納得できるような簡単なことを述べているように思えるが、そもそも善とは何か、ということを深く洞察しなければ、この善なる動機をもつことが難しいのである。私たちは、この「善なる意志」とは何か、ということについては細心の注意が必要ではある。しかし、もしも一切衆生を利益したいという菩提心をもって行うことができるのならば、それらのすべての行為は、善業になるということである。

善とは何か、ということを知るためには、それを自分なりに勝手な解釈をするべきではなく、むしろ十善・解脱を求める意識・菩提心や六波羅蜜や四摂事という菩薩行と呼ばれるものがその代表的なものであるので、まずはそれらの教義で説かれる、具体的な善なる意志というものを私たちは学んで行くことが重要であろう。

水車の存在は、紀元前5世紀くらいの古代インド文献でも確認でき、チベットにも歴史的には日本と同じように七世紀くらいから存在していることが確認されている。『入中論』にも我々が三界に輪廻転生することは「水車の如く廻されて自由はない」と表現されているものも有名であるが、水車を使ってかなりの高低差のある斜面を水を上げる例は、今日のインドの山岳部にも古いタイプの水車が見られるようであり、水車文明について調べていくとまた面白いものであるが、また別の機会にしたい。

現在もインドで見られるもっとも原始的な水車はバケツタイプである

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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