2020.06.09
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

岩の表面に善なるものを刻んでゆく

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第78回
訳・文:野村正次郎

水面に絵を描くかの如く

罪深い心をすぐに捨てるべきである

岩面に絵を描くかの如く

善なる意志を強く固めるべきである

78

私たちは無始の過去から罪業を積んできて、それが習慣化しているので、罪業や罪深い心というものは、すぐに起こすことができる。たとえば誰かに対して嫌悪感をもったり、執着した好意をもつことはさほど難しいことではない。何故ならばその者の欠点を集中的に数え上げさえすればよいだろうし、自分にとって役立つ側面などを想像するだけでよいからである。

これに対して善業には習慣化していないので、小さな善業であれ、小さな善なる意志であれ、それを心に持ち続けることは大変困難であり、すぐに罪業の方へと流されてしまいやすいものである。たとえば人に対してやさしくしようと思っても、その善意だけの状態を純粋に維持することができないので、相手は何故その思いに応えてくれないのか、という見返りを求める煩悩にまみれてしまい、本来の善なる意志とは程遠い意識へと変化してしまうのが、人の常というものであろう。善業にしても善なる意志にしても、煩悩とその心を完全に分けることができないのならば、それはあくまでも有漏の善に過ぎないのであって、有漏の善が生み出す結果は、楽受であるが、それは本当の幸福ではなく、壊苦と呼ばれる相対的な幸福感に過ぎないのである。

本偈ではそのような二つの方面を向いている心をどのように、マネジメントしてゆけばよいのか、ということを説いているものである。

悪意の方は、水の上に絵を描いたのと同じように堅固なものとすることなく、それに依存することもなく、すぐに消え去ってしまう、一時的なものであると見做さなければならない。これに対して善意の方は、岩の上に絵を描いて、岩に刻み込んで行くかのように、ひとつひとつの善意を心から決して離れることのようないように、一時的に起こった善意を、論理的な分析を行ったり、その善意のもたらす結果や功徳を思うことで、純然たる善意へと決意を固めていかなければならない。すくなくとも、そのひとつひとつの善意が、日常生活や様々な出来事に翻弄されて起こってくる否定的な感情によって、その基盤が揺るがされ、善なる意志を失ってしまったり、悪意へと変わってしまったりしないように、用心する必要があるのである。『ウダーナヴァルガ』にも、釈尊の言葉として、次のように言われている。

自分だけが自分の主人である
自分だけが自分の敵でもある
善と悪のどちらを為すのか
その審判は自分だけである

私たちの人生は儚く短いものである。日々の営為を積み重ねて、他人から評価され、財を為したとしても、その痕跡を墓標に刻むくらいのことしかできない。墓標に刻んだ自分の名前は、そのうち誰かに消される恐れもある不安定なものである。これに対して同じ短く儚い時を生き、自分たちの心に善なる意思で深く巨大な絵を刻んで行こうとすることもできる。そしてその絵は誰かに消されるものでもなく、死後も自分の誰にも奪われない善業として、それを拠り所として次への生へと希望をつないでいくことができるものである。

チベット文化圏では、人気のない道の途中にも観音菩薩の真言である「オンマニペマフン」を彫った摩尼石と呼ばれる石が様々なところに無数に蓄積されている。これを刻んだ人たちは個人的な動機によるものも多いとは思われるが、彼らは諸仏の真言を刻むのであって、それは自分のためでは決してないし、自己表現でもない。すべての生きとしいける者を苦海から救い出すと誓いをたてた観音菩薩の御加護がありますように、という祈りを込めて刻んでいる。旅人たちは人気のない場所に摩尼石があると、そこにも観音菩薩の御加護が働いているという安堵感を得ることができる。緊急事態宣言は解除されたが家のなかで何をしたらいいのか分からず、DIYで家具を作ったりする人も多いようであるが、日本でも摩尼石を彫るなどのことはすぐにでもできる素晴らしい仏教の実践法である。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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