2020.06.08
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

やさしく微笑を伴うが、底知れぬ冷たい河のように

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第77回
訳・文:野村正次郎

言葉は少ないが微笑を伴い的を得ている

そんな話に人はすべて耳を傾けるのだろう

音もなく静かに緩やかに流れる河ならば

水深がどれだけあるかを知り難いのである

77

重みのある言葉というものがある。私たちは何かを語り、何かを人に伝えたいのならば、そのような重みのある言葉を完結に、的を得て語らなくてはならない。そしてその語り口は常に相手に対してやさしいものであり、自然と耳が傾けられていく。

菩薩たちの語る言葉というのは、そのようなものであり、菩薩たちが語りだすと意味を介さない動物たちも集まってきて、自然にその物語の場が生まれてゆく。仏教における教えを象徴する法輪の両脇には番いの鹿が描かれるが、鹿がのんびりと座って耳を傾けているこの図案は、仏教で語られる言葉の愛らしさ、落ち着きのある静けさをも表しているのではないか、とすら思われるものである。

それは決して美辞麗句を並べたものではなく、美しく楽しくなるような言葉ではない。時には、それが語る真実は残酷な事実であることもある。しかしながら、その重みのある言葉は、まるで矢のように人々の心へと刺さり、その言葉は人々の心に反響し、記憶のなかに残響したメッセージは、人々の行動や精神の営為の方向性をも左右することがあるものとなる。チベットの人たちは「良きことばを口ずさみ、良き意味を心にしまっておきましょう」と言っているが、心のなかに大切に保管しておくためから、という訳では無いが、美しい語り口やさまざまな譬喩や音楽的な言葉で仏典は書かれている。

私たち日本に住んでいる者にとって、河というのはそこまで長くはないものであり、そもそも島国であるので、川幅が大きな河は日常的には見かけない。だからか、水深のある河もあまりなく、深い河は海へと流れ込む最下流の流域くらいにしか見られない。

これに対してインドやチベットの河川は基本的に大変長く遠くまで続いている河であるガンジス河にしても結構は幅をもっており、チベットは上流域にもあたるので、冷たい水がほぼ枯れることなく流れている河川は、水深もかなり深い。このようなある程度深い河川があるからこそ、川に飛び込んで入水自殺を図った神の神話も多くでてくるくらい、川に飛び込んだらそのまま流されて死んでしまう可能性が日本の河川よりはるかに高いのである。日本の古典などにも入水自殺の失敗例として川に飛び込む話があるが、こうした地形的な問題が関わっている。インド・チベットでは日本の河に比べて、川幅、水深も圧倒的にあり、一度流されてしまえば、途中で障害物に引っかかりにくい。特に雨季や雨の次の日などは、水量が増え流れもはやくなるので、泳ぐことは大変難しい。

日本の海ででも岸から数十メートルも行けば、水深は身長より増し、岸は遠く、水は冷たく、底も見えず暗い冷たい漆黒の水の塊となる。海峡になっている場所などは、潮の流れは速いので、泳ぐのには適していない。本偈で喩えられている河というのはこのような河のことを表している。

本偈が表現する、私たちの理想とする言動とは、そのような深みと重みをもったものでなくてはならない。そんな誰しもが自然と注意を払わざるを得ない深い大きな河であり、同時に恐怖を生み出すわけではなく、微笑みとともに語られているやさしい言葉である。仏の言葉というのは、そのようなものであると想像するとまた深い興を感じることができるだろう。

ラサ近郊の流域でも川幅はかなり太い

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