2020.06.07
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

社会的距離間を言語活動にも適用する

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第76回
訳・文:野村正次郎

思いつきをすべて口に出す人には

どんな人も当てにできないと軽んじる

せせらいで流れている河ならば

こどもたちさえも泳ぐことができる

76

思ったことを何でもかんでも軽々しく口にすることを慎むべきである、本偈はこのことを説いている。軽々しく発せられた言葉は、重みも深みもなく、たとえどんなに大切なことを伝えようとしても、無力な言葉となってしまい、耳を傾けて受け止めてもらえなくなってしまう。それはせせらぐ音を立てている河のように表面的で、こどもたちでも泳げるような浅いものであると喩えている。

釈尊の降誕・成道・涅槃の三つの偉業が示されたというサカダワ月は、一昨日の十五日をピークとしているが、実はその日ある沈黙の時のはじまりともいうことができる。

釈尊は成道の際におひとりで「甚深で寂静であり、戯論を離れた、無為なる光明のこの甘露の如き法を私はここに得た。しかし誰に説いても理解されないだろう。それ故に沈黙しそのまま森を住処としよう」と説かれ、現等覚した後説法をするのを躊躇った。そこから四十九日後の六月四日にヴァーラーナーシーの地で初法輪を転じられるまで自らが得た境地を誰かに伝えることもなくそのまま沈黙されていたのである。

また涅槃の相を示されたのも、この世で釈尊が説法して教化することが必要でなくなったことから、すべての所化に共通した現象としては、沈黙され涅槃の相を示されたということになる。もちろん釈尊や諸仏が説法をしない時は存在しないという解釈が正統なものであり、ブッダたちは無限の過去から今日もなお永遠に説法をしている、という考え方があるが、一方ではこの沈黙という行状もまた、ひとつの重要なメッセージを伝えている。

人払いをし言動を停止させ、自らの心と向き合う沈黙の行は、仏教にのみ限るものではなく、キリスト教の修道院などにもこれは共通している。ヨーロッパの修道院などには観光客を一切断っている場所も多いし、たとえ信徒がやってきても一切修道士たちは会話をしないという場所も多くある。僧院というのは、そもそも人里離れた静寂な場所に、静寂に心の内面と向き合ってくらしている人たちが神仏と交信している場所である。だからこそ本来はそのような場所に俗世間の粗雑な言語活動を持ち込むことは控えるべきものであるとされているのである。

今回私たちは、飛沫感染などによる感染拡大の予防の観点から、身体的な社会的距離間を保つように心がけなくてはならなくなった。本偈でいわれているのは、そのような社会的な距離間は、身体的な距離間のみに留まらず、言語的な距離間をあけることを水精している、といえば少しわかりやすいかもしれない。

私たち人間は言葉をもち話をすることができるが、言動は悪業ともなる。粗暴な言葉は人を傷つけ、恐怖を生み出すし、無意味な言葉は、人の貴重な時間を奪う。仏教の言葉というのは、甚深で重要な思想を伝えねばならないのであり、空虚に拡散されるべき陳ものではない。だからこそ、私たちは日常的に言葉の使用について、細心の注意を払いながら、必要最低限の言葉を使用することを習慣化することが望ましいことになるのだろう。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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