2020.06.06
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

揺らしてこぼしてしまわぬように

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第75回
訳・文:野村正次郎

賢者はすべて平等心に満ちている

偏って見る者は貪瞋に満ちている

水をきちんと満した瓶は運びやすく

途中まで充しただけではこぼしやすい

75

本偈は、知るべきことを知り、それを実践できる賢者と知るべきこと知らず実践もできない愚かな者との違いを表現したものである。

ここで知るべきことを知るということは、まずは善業と悪業を区別できることからはじまる。それを知るということは、単に情報として知っている、というのではなく、特に他の生物を傷つけてしまうかもしれない、行動、言動、思考法を慎んで、自らを律している者は、どのような人物や生物であれ、親疎の区別をしたり、差別することなく、自分に幸福や不幸が起こるのと同じように平等に考えている。これに対して知るべきことやなすべき所行を知らないものは、自己中心的な視点しか持てず、ある者に対しては好意的に見るが、別のものに対しては嫌悪感や憎悪をもっている。そのことを水をすべて充した瓶は運ぶときでも溢れにくいが、途中までしか入っていない瓶を運ぶときには、動かすことの振動によって溢してしまう可能性が高い、ということで喩えている。

菩提心の修習の際に起こすべき「一切衆生が幸福になったらよい」というこの思いは、すべての衆生に均等に平等に注がれなければならないものである。自分の親しい者には幸せになってほしいと思うのは慈愛とはいわれない。何故ならば、それは自己愛の延長線上にある感情だからである。しかるに家族愛や兄弟愛、また特定の集団や人物に対する愛情というのは執着に過ぎないのであって、真の愛情とは言い難いものであるとする。とはいえ「人の親の心は闇にはあらねども」と古人たちがいうように、私たちの心は闇に包まれている。誰しもがそれを闇であると知りつつも、都合がよい抜け道のような解釈をしようという意思がはたらいたりするが、それは厳格に退けなければならない。これが智慧のある生活様式、思考法、ということになるのだろう。

慈悲心を観想するときは、一切衆生をみな人間の姿で観想する。これは別の姿の生物ではなかなか想像上の障害がでてきることもあるからである。また人間にしても美醜の差異もあるが、そうした差別的な感情を捨てなければならない。ダライ・ラマ法王がよく説かれている普遍的責任感という人類をひとつの全体として考えることは、この観想法の一貫でもあるだろう。仏典のことばには、様々な意味が多く詰まっている。しかしひとつひとつの言葉の意味を深く考え、すべての衆生のひとりひとりの有様を考えることは極めて大事なことであると思われる。どんな人も幸せになりたい、苦しみたくない、というこの命題は実にあたりまえのことのようなことであるが、実際に私たちはそのことを実感としてもっているわけではない。

しかし無償の愛や平等な慈悲心というのは、私たちの心の闇を明るくしてくれる希望の光であることだけは間違いないだろう。私たちはどんな時でも希望の光を失ってはならない。現実を分析する知性というのは、実はその希望の光を失わないためにあるものなのかもしれない。それらが表面張力を失わないかぎり、希望の光と実用がある。本偈ではそのような叙情をえがいている。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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