2020.06.03
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

巨大な循環運動の潮流の畔にて

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第72回
訳・文:野村正次郎

福徳がもつ力 善なる知性

これらは互いを因とし運命を切り開く

河は雨の源となり 雨は河の源となる

互いを因として流れ大地を潤してゆく

72

一切衆生に対する利他心である菩提心と無我を証解する智慧との二つは、方便と智慧の双運といい、ちょうど鳥が二つの羽を使って空を飛んでいくように、両方必要なものであると言われている。福徳は利他の心によって育まれるものであり、その利他の心の動機付けをし、その利他の心の正統性を裏付けし、すべての営為が利他の活動となるために、善なる知性が必要となる。その二つを両翼のように使って、私たちは進化し、そして苦海の輪廻へと再生せず、すべての生きとしいけるものたちの苦しみを克服する仏の境地へと至ることができるのである。

本偈はそれを河の水が雨によってもたらされるものであり、雨の水が河の水によってもたらされるものであるという、相互に原因となっていることに喩えて説明する。私たちが川辺を徘徊する時、その川が海へと流れ込んでいることが分かるし、雨が降って増水した川を眼にすると、この大きな循環系の仕組みを否応なしに感じることとなる。私たち人間は実に小さな小さな存在である。毎日見ているそれらの川や海、そして雲と雨、そのひとつひとつのものはすべて我々よりも質量的にも大きなものであり、質量的にも大きな循環系を有しているのである。水の循環系を考えるならば、それは我々のこの小さな身体でも同じようなことが行われていることは確かであるが、自然の循環系には、多くの生命が関わり、大きな真実が歴然と提示されている。

善なる知性とは、ある意味私たちが見ているそれの河が、ある望まれるべく方向性へと流れてゆき続けるよう、都度流れを修正しつつ堤防や土手のようなものかもしれない。堤防は土手が無ければ、河は好き放題氾濫し、さまざまな生命に対して危険をもたらしたり、不自由を強いることとなる。それと同様に煩悩や悪業は、自然で悠久の潮流を掻き乱し、時には、人々を恐怖や死へと導いてしまうこともある。遠くインドの地にて二千五百年ほど前に説かれた仏教の潮流は、川辺に棲む様々な人々が様々に好き勝手に利用してきたことも確かであろうが、その悠久の流れは常に解脱の大海へと流れ込み、衆生利益という形で、巨大な循環運動をいまも続けている。私たちはそのような大河を眼の前にして、どのようにあろうとするのだろうか。その答えは、静かな流れを見つめていると自ずから明らかになることなのであろう。


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