無知な愚者が如何に享受しても
苦しみの源以外の何物でもない
黄金山の間にあるすべての海が
常に闇に覆い隠されているように
神仏や修行者を供養したり、貧しく困った者たちに施す、ということを知らない愚かな者たちはどんなに多くの財産や物質的な繁栄を享受しても、それは彼らにとって苦しみの原因が増えているだけであり、それ以上のものとなることはない。そのことは須弥山と黄金山との間にある海には、日光も月光も指すことがないので、常に深い闇に覆われているのと同じである、と述べている。
無知や愚かさというのは闇に喩えられ、それに対して知性や賢者は光明にたとえられている。須弥山と黄金山などは『倶舎論』や『時輪怛特羅』などに記載されているものと同じであるが、現在のこの地球上で決して陽があたることも、月の光もあたることがない、暗黒の海を想像してみるとよいだろう。そのような場所にいれば、恐らく誰しもがその闇をどう抜けたらいいのか分からないだろうし、闇の恐怖に慄くこととなるだろう。
多くのものを享受するかも知れない無知な愚者は、豪華絢爛で脚光を浴びているような印象がある。しかし実はそれは深い漆黒の闇に堕ちているに過ぎない、と私たちは見方を変えてみるのである。実際に大富豪で何不自由ない生活をしているにも関わらず、孤独と不安に耐えかねて薬物依存症やアルコール依存症になり、さらにまた別の犯罪を冒してしまう事件もよくある。多くのものを所有している、ということは同時に多くの苦しみの原因を抱え込んでいる、ということなのである。
仏教とは、このように冷静に現実を分析して、ものごとの見方について、通俗的な我々が煩悩によって習慣化した見方を反省し、より正確な事実を理解することで、我々が習慣化した煩悩による思考法を排除することを説いている。
