財産を増やしたいと思う者はまた
一部を寄付すべきことを知るべきである
井戸水は汲んで使うと増えてゆき
放置するなら濁って枯れてしまう
仏教や宗教を学ぶのは、本来は我々がより幸福になり、より豊かになるためである。そのための財産を増やす方法を本偈は説いている。財を築き、財を増やすため、財の一部をラマや僧集などの供養すべき対象へと献上し、貧しく困った人へと布施をする、といった寄付行為を習慣化する必要がある。
ユダヤ教やキリスト教の普及している国においては、「什一献金」(tithing)といい収入の一割程度は、神の所有物であるので教会などに献金をする献金の文化がある。聖書のなかには「惜しんでわずかしか蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かである。」(第二コリント・9・6)と述べられるように、神が与えてくれる恵みをより多く受けるためには、より多くの献金をすべきである、とされている。すべての収入は神によって与えられたものであるので、神に感謝の意を込めて、まずは最もよい部分の十分の一を神に返却し、残りのものを自分たちのために使う。神に捧げるものであるからこそ、残り物や余り物ではなく、また傷がついたものではなく最高のもの、一番いいものを捧げるということになる。
仏教では創造主である全知全能の神の存在を認めないので、すべての業は自業自得ということになる。だからこそ自ら率先して、喜捨をする必要がある。何故なら自己に受容がもたらされる、という楽受は、他者に受容をもたらせる布施行を原因とするからである。布施は六波羅蜜の最初に数えられ、菩薩行の最初の重要事項である。
世界の人たちが日常的に寄付をしたり、知らない人を助けたり、社会奉仕活動として実際にどのくらい働いているのかをランキングしている「World Giving Index 2018」という統計が発表されている。この5年間における世界146カ国の社会貢献度ランキングのトップ20をみると次のようになっている。
他者に役立つ活動を日常的にしている国のランキングTop 20
- ミャンマー
- アメリカ合衆国
- ニュージーランド
- オーストラリア
- アイルランド
- カナダ
- インドネシア
- イギリス
- ケニア
- スリランカ
- オランダ
- アラブ首長国連邦
- マレーシア
- ブータン
- マルタ
- ノルウェー
- アイスランド
- シンガポール
- ドイツ
- デンマーク
ミャンマー、スリランカ、ブータン、マレーシアといった仏教文化の根付いている国が上位を占めている。また別の調査によれば、米国の寄付行為の76%は個人によるものであり、その次に財団などにより、英国でも60%は個人により、それに企業・財団が続いている。これに対して米国の寄付行為の33%は宗教に対するもので、教育は次の14%となっている。英国では医学研究に対する寄付が19%を占め、その次が宗教の16%となっている。
日本の状況についてはあまり言及したくはないが、残念ながらこれらの世界的な統計データによれば、日本は非常に冴えないことになっている。「World Giving Index 2018」によれば、日本は世界ランキングでいくと128位であり、下から数えた方がはやい。
このランキングによれば、「困っている知らない人を見かけた時に手伝う」という手助けの指数は日本は144国のなかで142位であり、非常に残念な結果になっている。今日日本のGDPは最近は中国に追い抜かれて世界3位となっているが、対GDPに対する寄付行為の比は日本は世界では最低レベルである。日本の寄付行為の6割以上は法人であり、その使途のうちで最も多いものが文化事業や娯楽が22.5%、教育の19.1%に続いており、宗教は9.5%程度に過ぎず、他の国比べると著しく低い。最近はダライ・ラマ法王がよく説法のなかで「日本人は仏教に興味がないようだ。経典を学ぶように何度も勧めているが、どうなったのかよく分からない」とおっしゃっている。伝統的に仏教が広がっている国のなかで、もっとも仏教を学ぼうとしないダメな人たちとして、私たちは日本人は世界に紹介されている。
現実のデータを見てみれば、日本は決して「豊かな仏教国」ではなく、「神仏を供養することのできない、心の極めて貧しい仏教国」ということになる。私たち日本人は残念ながら「困っている知らない人に対して世界で2番目に冷淡な人たち」である。これらの状況は伝統宗教の考え方によれば、日本人は施しをすることを好まないので、それによってよって得られる受容も期待できない。しかるに恐らく今後も経済的に豊かになることもなく、ますます貧しい国になっていく、と考えられることになる。実際に日本では野良犬や野良猫を大量に殺害しつづけており、動物にとっても住みにくい国であることは確かである。
井戸を掘る、というのは大変な仕事である。一度できた井戸はほぼ半永久的に使えるといわているが井戸水を使わなくなれば、枯れてしまうことも昔から言われている。布施や供養というのは、どの宗教でもそれが幸福につながる行為であると説かれている。それは個人が自らの幸せのために行う行為なのであり、個々の人間の在り方の問題である。私たち日本人は、いまは貧困や飢餓に悩んでいるわけではない。しかし井戸のように私たちの受容も枯渇してしまう日もあるのだろう。いまのうちからまずはそのあたりから考え直すべきではないかと思われてならない。
