2020.05.30
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

心の砂漠化を防ぐために

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第68回
訳・文:野村正次郎

自他の誰にも役立たない

財産は無いのと同じである

水なき土地がどんなに広くとも

皆は砂漠に過ぎずと見放している

68

チベット難民の人たちは、寄付をよくする。昨年末にはオーストラリアで火事があった時にもたくさんの人たちが寄付を募ってオーストラリアに送っていた。インドでは外出禁止令が発布されている現在の感染拡大状況のなかでも、チベットの僧院は、近隣の労働者の人たちに大量の食料や現金を配布したりしている。東日本大震災の時には、ダライ・ラマ法王ご自身が日本赤十字に一千万円ほど寄付された。彼らは難民で困っているはずなので、寄付をするのはおかしいと考える人もいる。そもそもその元手は寄付によって得た者であるし、寄付によって得たものをまた第三者に与えるというのは、最初に寄付してくれた人の意向を反映していないので、よくないという意見も日本人からはよくでる意見である。これは所有権の移転に関する基本的な通念の違いを反映している。

たとえば具体的な例を挙げて考えてみると分かるだろう。ある日本人がチベットの先生に会いにきて、お供えです、といって立派な桐の箱に入っている、高価な陶器の花入れを風呂敷に包んで献上した。するとその先生は、大変ありがとうございます、といってしばらく談話を続けるが、受け取って包みも開けようともしない。そこで周りの日本人が気を遣って、その風呂敷包みを開けながら、この陶器の花入れは如何に高価なものなのかを説明する。しかしインドの自坊に持って帰るのには大きいし、実用的ではない。しかしその桐の箱は、釘ひとつ使っていない日本独特の素晴らしい技術であるし、小物を入れるのにも実にちょうどいい。先生から見れば、この桐の箱は実用的で大変よいものを頂いたと喜んでいるが、花入れの方はまったく必要ないので、その花入れの説明をしている日本人にあげてはどうか、と提案する。先生から見れば、そんなに高価なものだと思うのなら、この人にあげたら喜ぶだろうと思うわけである。だから、先生としてはその花入れがいるかどうか、その人に聞いてみてくれ、と言うことになる。しかし日本では献上品の一部だけを受け取って、献上した人と一緒に来た人に、その一部をあげる、という習慣がない。そこでその場では、事情を理解している周囲の人はその場では、そのままにして、後日花入れの適当な行き先を考えなければいけなくなる。

この例の場合には、花入れも桐箱も両方とも、献上者が先生に献上しただけで、所有権は移転し、贈与は成立している。贈与を受けた先生は、お礼に「ありがとう」とちゃんと伝えているし、献上者が贈与をしたという行為が重要であり、贈与を受けた品物よりもそりもそちらが大事なので、その献上者の話を聞くことを重要視するので、開封することはない。開封して説明してくれる人に対しては、その献上品がどのようにいいものか、ということの情報を教えてくれる、という言動による貢献がある。献上品である花入れ部分は自分にとっては不要なものであるので、その説明をする人が力説するほどよいものであれば、その人にそのまま贈与したら、その人は喜ぶであろう、という期待ももてるのである。だからこそ、そのままその花入れをその人にあげてはどうだろうか、という提案も論理的には何らの矛盾はないのである。さきほどもらった花入れですが、既に所有権は自分にあるので、それを贈与するとこの人は喜ぶであろう、という論理である。

献上品が純粋な献上品である場合には、これは成立するであろう。しかし献上品はもしも何か別の対価として提供したものであれば、この理屈は成立しない。たとえば「与えられたものがすごく喜んで有り難がる」という行為の対価であれば、そうであろう。しかしその場合には、自分が献上したものに対して、そのものの発生源が自己に由来するものであり、所有権は移転したが、対価・報酬をもらっていない、という価値の交換の不均衡が起こった状態であると考えているのではないだろうか。

しかし本来高僧を供養したり、乞食に施しを与えることは、与える、という行為自体に意味があるのであり、それは対価・報酬を見返りに期待しては成立しない。しかしながら、日本では貢ぎ物の文化が根強いからであろうか。それを期待していることが多いので、文化と文化の間に入らなければならない我々には、そこで問題が起きないように、常に気を遣うことになるのである。仏教で説いている「布施を行えば受容がある」というのは、施しをすればその対価がある、ということではないし、対価を求めているのは寄付行為ではなく、報酬を対価とした何らかの価値の交換行為に過ぎない。宝くじが当たるという言われている神社に沢山お賽銭をして願をかけても宝くじがあたるわけではない。布施にしても、愛情を捧げる行為にしても、あくまでもこちら側の業の問題である。我々は善業を行うときに最も気を付けることは、偽善ないしは善業の押しつけではないだろうか。

心が砂漠化すれば、そこには何も育たない

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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