2020.05.25
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

善業の水源は我々自身の精神的な現象にある

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第63回
訳・文:野村正次郎

自ら徳行から退かなければ

敵たちでさえ打ち負かせない

湧き水は自ら枯れないのなら

地面に押さえられても止められない

63

仏教の業報思想を考える上で重要なことは、それが精神的現象であり、物質的現象ではないということがある。たとえば殺生をすれば、自らの寿命が縮まる、というが、これは自分の精神が肉体との結びつきを維持する力が弱体化した状態のことを指しているのであり、長く生きれない消費期限が短い肉体そのものが結果なのではない。これと同様に盗みをすると貧しくなる、ということは少ない財産という物質的なものではなく、財産を享受する機会が減った状態が起こっているということである。これは逆の善業の場合にも同じことがあり、布施をすると財産の享受がある、というのは多くの財産のことではなく、より多くの財産を享受できる、という状態のことであり、戒律を守ると身体が清浄になる、というのも美容整形をするように物質的な身体が美しい物質へと変化するということではなく、美しい身体を享受できる、ということである。つまり我々が為した業とその異熟である結果は、どちらも精神的現象であり、物質ではないのである。

もしも業というものが物質上に起こるものであるのならば、肉体の滅と同時にある分量の業も同じく滅さなければならない。たとえば沐浴や苦行によって身体に負荷をかけることによって、業を浄化できる、とジャイナ教などでは考えるが、仏教ではそのようなことを決して認めていない。しかるに自らが為した業は自らの精神にのみ蓄積されるのであって、その業を物質のように他者へと譲渡することもできないし、他者が我々の業を略奪することもできないのである。だからこそ強い意志によって自らの精神を守るのならば、どんなに他者が我々の精神を崩壊させようとしても、無理であるということになる。

このことをもう少しわかりやすく説明するのならば、それは我々の知的な財産と同じようなものであると考えることができるだろう。たとえば英語を学習してある程度習得したらそれは誰かが決して奪うことのできない知識として学習者の本人の記憶に蓄積される。その知的財産は、たとえ肉体的に声帯を摘出しても、英語能力は維持される。他者は学習者に英語能力の向上のための指導はできるが、英語能力自体を電極を脳に挿して転送することはできない。これと同様に業も他者によって決して奪われることがないのであり、善業も悪業も我々ひとりひとりの個人が独占している知的な財産なのである。だからこそ善業を積集すればするほど、自己の精神には福徳が蓄積されていくのであり、それは他者によって奪われたりするようなものではない。

自業自得という原則は、他者による慈悲が働かない残酷で見捨てられたような状態を想像しがちであるが、実はそうではない。自業自得というのは、我々の精神の主催者が我々自身を主権としているのであって、決して他人に支配されていない、という基本的人権のようなものであると考えることができる。そう考えるのならば、自業自得という原則は、むしろ私たちにとって好都合であり、私たちの希望ともなるものなのである。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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