他者が栄えるのを嫌う者は
自らの徳すらも喪失させる
激流へと飛び込んでしまうと
自らは死ぬが相手は無傷である
煩悩というのは基本的に自己破滅型の思考である。すべての煩悩は悪業の動機となり、苦しみしか生み出することがない。それらは他者との関係性のなかで「私」という我執を根とすると同時に生成されているものであるが、その業は他者に対して影響を及ぼすよりも自身に対して与える影響の方が大きい。激しく流れている川に腹をたて、そこに飛び込んでいったとしても死ぬのは自分であり、川は無傷なのである。
このことを本偈では嫉妬を例に説いている。嫉妬心とは、他者が善業によって功徳を享受している状態に耐えられない感情と定義されているものである。現実の状態に対して感情的に耐えられないので、自己の精神状態は混乱状態へと陥いる。そしてそれによって様々な煩悩や悪業を生み出していく。
嫉妬に対する対治は、随喜である。他者が善業を行っていたり、功徳を享受していることについて、それを素晴らしいことであると、心の底から喜びに感じる感情である。随喜という感情は具体的にどんなものか、というと、たとえば応援しているスポーツ選手が怪我などに苦しみながら試合で勝利を収めた時に多くの人たちが涙を流して感動している状態がその状態である。そのような感動の瞬間に、その選手が実は裏で悪いことをしているんじゃないかとか、今回は勝てたけど彼の選手生命も長くはないな、といった否定的な感情をもつ者は少ないであろう。この否定的な感情が嫉妬であり、純粋な感動状態が随喜なのである。随喜は自己破滅型の思考ではなく、純粋に他者の幸福を喜びとする感情である。この時に否定的な感情を起こしてしまえばどうなるだろうか。スポーツなど所詮お遊びであり、裏では八百長試合をしているのではないか、そんな否定的な感情が連続して生成されてしまうのならば、そもそもせっかく楽しんでいたスポーツも楽しくなくなってしまう。自ら自分の楽しみを奪っていくわけである。
仏教とは自己破滅型の思考に対する冷静な分析をするのと同時に、その思考を排除するための対治を説く宗教である。だからこそ仏教とは心の科学であるとも言われている。この心の科学は人生や世界を否定的に見るために学ぶものではない。我々の日常が自己破滅型に否定的な感情を生成しているのをやめて、積極的な肯定的な感動状態を意図的に作り出す手段なのである。今回はスポーツ観戦の例を考えてみると、その仕組みが少し分かるような気がするが、ほかにも様々なことを考えることもできるだろう。それはまたの機会にしてみよう。
