2020.05.18
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

私たちに見えている現象は、必ずしも客観的事実ではない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第54回
訳・文:野村正次郎

勝れた者はしばし弱っていても

また再び威光を放つものである

凍りつき洞穴に入った河もまた

春の陽気で次第に流れ出すように

54

「私や私と同じように人のことを量るべきなのであり、人によって人を量るべきではない。破滅に至ってしまうからである。」これは釈尊が、人が自分の価値判断の基準によって他人の価値を判断してはならず、どんな人物であれ仏や菩薩の化身が現れたような者かも知れず、事情や事実を分からずして表面的に人を断罪してはならない、と教える言葉である。

この言葉は、仏教論理学では、非認識証因を説明する時に使用されるものである。顕現し得ないものが認識されないとき、その対象に対しては正しい認識は働いていない、ということを証明する正しい論証因であり、ある特定において、観察者の知には顕現し得ないものが認識不可能である場合、その対象は非存在ではないが、その対象に対しては正しい認識が働かないので、その存在性を確定することができない、ということを表すものであり、ダルマキールティが『量評釈』の冒頭で説明している。たとえば鬼神の存在であったり、視覚化不能な対象は存在しない訳ではないが、それに対しては正しい認識が働かないので、確実に存在していることを論証出来ない、ということになる。

この理論は、小さな子供たちが僧院で共同生活を送るために、いじめや喧嘩を防止するために役立っているだけではなく、師事作法のなかで善知識に対する疑念や欠点を数え上げることをやめなければならない、論理的な根拠として有効に活用されている。本偈の説いている内容も、この論理を適用するとよく理解することができる。

勝れた者、たとえば釈尊のような如来であっても、凡人の了簡の狭い我々のような者から見るならば、必ずしもその人生のあらゆるシーンで成功者として力強くあるわけではない。時には体調不良な様子が経典では書かれていたり、従兄弟のデーヴァダッタの反逆の逸話などを考慮するならば、表面的には、極めて凡人と似たような人間的な側面もまた見えてくる。近代の唯物主義的な学者のなかには、こうしたシーンを釈尊もまた我々と同じように普通の人間であり、思い悩んだり、思想が変化したりすることもある、という者もいる。「ブッダの最初の教え」「ブッダの最後の教え」というようにまるで新製品や在庫希少の商品のようなレッテルを貼り、釈尊の教えを商業的に宣伝する文句すらこの世には存在している。しかしこのような狭隘な視点しか持てない者たちのことを仏教では業障が深く、劣った者たちであると批判的に見てきたこともまた事実なのである。律の作法に対する根本分裂といった派閥意識や大乗非仏説といった意識は、伝統的にも存在してきた。彼らの問題は、如来の不可思議なる威光に陰りがある、と疑念をもってしまう、という思考障害にあるのである。

地球上では太陽の光と熱に依存して多くの生物が生活を享受している。太陽は夜になれば姿を隠し、雨や嵐の日には姿を隠すだろうし、冬の太陽は遠くにあり、夏の太陽は近くにある。しかしその太陽が我々の思い通りに、光と熱を提供してくれないからといって不平や不満を述べても仕方がない。これと同じように諸仏が説法をしていない時は存在しない、と言われるが、残念ながら我々はその諸仏の説法を常時聞くことができる訳ではない。すべてのものは我々の業が作り出す、といわれるように、我々が他者がどのように見えているのか、ということは、他者の問題ではなく、我々個人個人の問題である。仏教における個人主義とはこのような論理によってつくられていくものである。

ヒマラヤの川は冬になると氷つき人々はそこを歩いて移動することができるようになる

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