2020.05.17
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

欲望を克服するため、戒律を護持する僧集の佇いは美しい

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第53回
訳・文:野村正次郎

善行へ励もうとすることと

淫行は矛盾した行為である

花を咲かせたいと思いながら

温泉の中に投げ込んでどうなろう

53

仏教は煩悩を克服し、輪廻への再生を停止させ、常楽の解脱の境地を実現する宗教である。しかるに如何なる欲望であろうとも、煩悩であるかぎり、それは断じるべきものである。人間には動物的本能としての睡眠欲・食欲・性欲の三大欲望があると世間でも言われているが、少なくとも修道者である限り、この三つの欲望を克服することは、仏教の実践として初歩である、ということになる。

欲望を抑制し、過度に睡眠制限し不眠症になったり、食事制限して拒食症になったりすることを仏教では良しとしない。何故ならば、身体を維持することは、修行の基盤を維持することであり、自己の身体に過度に負荷を掛けることが煩悩を克服することには繋がらないからである。食事の適量を知る、ということは資糧道を得るために必要な条件となるのであり、健康な身体を維持することは、修行者の基本的な務めであるとされている。

ナーガールジュナは、食事を摂取する場合に、その食事が、煩悩を増大させるためであはなく、栄養素を維持している治療中の病人のように修行のための栄養分の補給をすると意識しながら、食生活を営むべきであると述べている。摂食行為は、身体の維持のためになすべき行いであり、修行が進んでいくならば、禅定食といって、禅定をするだけで食欲が満たされ、段食といわれる固形物の摂取をしなくてよくなる。

また睡眠時にも、善なる動機をもちつつ眠りに落ちるという修行法が説かれている。睡眠時には、荒い意識が心の表面から止滅している状態になるが、もしも三毒などの悪意を心に描きつつ眠りに落ちていけば、睡眠時間中の意識もその不善の方向を向いているので、不善業を無意識的に積んでしまう、ということが説かれている。しかるに就寝前に菩提心や無常・無我というものを観想しながら、そのまま止むを得ず眠りに落ちてしまうように推奨されているのであり、起床して覚醒してすぐに他の活動をする前に菩提心や無常観・無我観によって、一日の意識を善なる方向へと向け、心の調律をまずすることが求められている。

性行為もまたそれと同じように煩悩を増大させるので、完全にやめるべき行いである。在家信者の戒律では、それは不邪婬戒として、他者の配偶者との性行為を禁じているが、出家者は完全に性行為を行ってはいけない。何故ならば、出家者があるべき行いに反しているからである。性行為や飲酒行為はそれを行なっただけで、戒体を破壊してしまうのであり、殺人行為などと同じように一度違反してしまうだけで、一生涯ふたたび出家という所依を今生では得ることができないことになっている。

出家者は性行為を行ってはならない、という原則は、決して例外や曲解できない絶対的な規則である。法の執行者である国家公務員が法令を遵守せずに、重大な犯罪を行えばその資格が剥奪され、スポーツ選手が薬物を使用すれば選手資格を剥奪されることと同じである。公務員規則やスポーツ選手の規則は、その分野の共同体が定めた規則であり社会的な制裁があるわけではないが、戒律の場合には、釈尊が定めた規則であり、性行為のような重大な違反を犯せば、戒体は失われてしまうのであり、出家という所依の功徳はなくなってしまうのである。

シャーンタラクシタにしても、アティシャにしても彼らはチベット人に正しい律脈を授けたことが非常に重要なのであり、ジェ・ツォンカパのチベットに残した業績のひとつとして、律を清浄化したことがチベット仏教では重要な評価基準となっている。もちろんサキャ派のように在属の家系によって宗派が維持されていたり、カギュ派のマルパやニンマ派の「密教行者」(ガクパ)のように在俗の修行者が存在していることは確かである。しかしこうした在家修行者の存在は、出家者が戒律を守らなくていいといった論理にはならないのであり、同時に、仏教の歴史において戒律の遵守を説いてきたことが間違っているということにはならないと思われる。

日本では親鸞聖人は妻帯していたが、自らを非僧非俗とし称しただけなのであって、僧侶の持戒の伝統を否定した訳ではない。伝教大師最澄や弘法大師空海、そして道元禅師にいたるまで、遺誡として戒律遵守の重要性を述べている。

各修行者が独自の知見によって破戒し、所依から堕落しようとそれは自由意志に基づいた行為である。しかし、在俗の者たちが、出家者の戒律遵守の様を尊い善行であると考え、敬意をもって供養したい、という思いを共有できなければ、僧団は維持できないことも事実であろう。インドのように仏教以外にでも出家者の集団が集団生活をしていたり、キリスト教の修道院が多くある国では、こういった禁欲生活をする修行者の集団に対する敬意や供養の感情が共有されている。少なくとも在俗の者は、僧侶に対して飲酒を勧めたり、性的な対象として見るべきではない。

不邪婬戒というのは、本来、身体的に性的障害をもつものには授けることができないものである。性行為をきちんと行えることができる身体をもちつつ、その行為を禁忌することが律するということなのである。きちんとした仏教が今後継続するのかどうか、仏教が興隆するのかどうか、ということは、仏教に対して関わる者が禁欲生活を営む修行者たちにどれだけの敬意をもち、どれだけの供養をしようとしたいと願うのか、にかかっている。

本偈では美しい花を咲かせようとすれば、それを温泉のような熱水につけても花が咲くことはない、と喩えている。戒律が清浄で、禅定は深く、智慧を修習し、我々を善なる方向へと導いてくれ、そして自分たちも寂静の方向へと向かおうとするのならば、欲に塗れた煩悩がひしめく世界を実現してしまわないよう、すべての人が共通の価値観をもつことが大切ではないか、と思われる。

戒律を復興する儀式である布薩を行う際、無始以来積集してきた罪業を僧侶たちは仏前で懺悔する

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