勝れた人は弱く無力でも
法に反した業を為すことはない
雨を待つ郭公は喉が乾こうと
地面の水を飲もうとはしはない
毎日一偈ずつ翻訳していたが、すこし配信のペースが滞っている。以前、新聞記者の友人に毎日記事を短い記事だけを書くのは楽でいいね、と言ったことががあるが、実際にやってみると簡単ではない。前回数偈飛ばしてしまったので、元の順序に合わせるのに手間取っていたが何とか追いつきたい。
幸い日本では、毎日の新規感染者の数が減少し、緊急事態宣言も解除されつつある。本山のあるインドでは日本よりも前から外出禁止政策をとってきたが、それでも現在も感染拡大をなかなか止めることもできず、まだしばらくはこの状態が続くのであろう。この5/23からはサカダワ月に入り、とうとう今回の疫病の流行はこれまでなかった事態になりつつある。今年は神変大祈願祭のすこし前からこの問題が発生し、サカダワ月にまで突入することとなったのである。
先週の週末には、ダライ・ラマ法王が久しぶりにインターネットでお姿を見せてくださり、ナーガールジュナの『宝行王正論』の最初の「増上生を得るための十六法」の箇所と発菩提心の箇所の偈を紹介してくださった。お話の内容は普段法王が繰り返し説かれていることであるので、特段急いでここに紹介するまでではないが、それについては別途動画に字幕を作成するなどしてもよいかなとも思うが、まずはこちらのグンタン・リンポチェの方を少しずつ元のペースに戻っていきたい。
チベットの僧侶たちに接して、私たちが学べることの大きなことのひとつに、彼らが決して世事の些細な出来事をとりたてて、大袈裟に何かを言ったりしないことにある。今回のような事態が起こって、日本では「ポスト・コロナ」「アフター・コロナ」などと様々なレッテル貼りをして、物事を考えなおそうとしている。しかしチベットの僧侶の人たちは、決してそんな大袈裟な物事の枠組みを考えることはない。彼らは自分たちの国が失われたことについても、我々日本人が反応するような大袈裟な反応はしないで、いつも通り、常に仏教の教えという大きな道から外れない。その在り方は極めて尊いと思う。自分たちがこの世にいる一世代に過ごし、経験していることというのは無始以来の無限の過去世からの業の流転のなかでは、ほんの些細な経験に過ぎない、ということをよく知っているのであろう。
本偈で説かれている内容も同じようなものである。賢く勝れた生き方をしている者たちは、どんなことがあろうとも、法に反した所業に従事することはない。現代の社会ではこういうことが一般的である、科学技術がこう発展したので、いまの時代はこうあるべきである、といったようなことは如何にも些細であり、仏法の流れにしたがって過ごす、というのは、もっと大きな巨大な潮流のなかに落ち着いて生きている、ということなのであろう。郭公がどんなに喉が渇こうとも、彼らは雨が降るのを待っている余裕があるのであり、地面に溜まった水を飲むことはない。それは自分たちにとって何が大事なことなのか、ということから逸脱しない生き方なのである。
