2020.05.15
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

仏教の業報思想に基づく慈悲心は、人種差別だけでなく、生物種の差別をも禁じるものである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第51回
訳・文:野村正次郎

口先だけの説法者たち

彼らは旃陀羅よりも心が貧しい

冬に立ち込める濃霧のように

闇に覆われ暗く一層凍ついている

51

古代のインドでは、人種(jāti)を宗教者(brāhmaṇa 婆羅門)・権力者(kṣatriya 刹帝利)・市民(vaiśya 吠舎)・労働者(śūdra 首陀羅)の四つのヴァルナに分類し、それに含まれないそれよりも下級の人種として、旃陀羅(caṇḍāla)など特定の職種の労働階級の者たちは不可触民とされる。こうした四つのヴァルナや人種(jāti)を考えることは通俗的には「カースト制度」とも謂われ、四つのヴァルナに属さない人種(jāti)は「不可触民」としてマヌ法典などで定義され、既得権や家族の資産の継承などのために利用されてきた。旃陀羅は婆羅門の女性と労働者の男性との間に生まれた人間のことを指している。

こうした人種差別は、日本でも士農工商の四民およびそれに属さない穢多非人という名称で奈良時代から中国から取り入れられ、公家や僧侶や医者は、武士に準ずる階級として既得権を継承していった。現在はインドでも日本でも人種差別は完全に違法であるが、家族単位での資産の相続などは今日でも行われているし、日本の仏教では檀家制度というものは今日は社会制度としては存在しないにも関わらず、自分の祖先の入る墓に死後遺骨を納骨するように勧められ、ある個人が死亡した場合には、その家族もしくは法定相続人は、債権債務を含めたすべての財産をその家族が相続できることとなっている。

本来は財産の相続というのは、遺族を利するために考えられている社会通念であるが、実際には毎年12,000件を超える件数が家庭裁判所で相続調停や裁判を行なっており問題が多いことは周知の通りである。現在の日本の新型コロナウイルスの感染者は約16,000人であるが、12,000件を超える相続関連事件に関わっている人間は現在の感染者の数倍の数がいることだけは間違いない。

我が国の伝統仏教でも被差別部落の人たちに対して差別戒名というのを過去に与えたことを反省し、本来生前中にしか授かることができない戒律を死後授け、さらにはもう随分前になくなっている人たちの戒名を変更したりしている。仏教学者と称する者たちのなかにも、こうした考え方は輪廻転生や因果応報といった仏教の根本教義に問題があるので、それを説くべきではない、と唱える者すらいる。しかしこれらの人種差別や家族制度というのは仏教とは全く関係のない通俗的な文化に過ぎないのであり、輪廻転生や業報思想に対する誤解を吹聴している我が国の仏教界の現況は、憂慮すべき状況である。

輪廻転生や因果応報という考え方は、そもそも社会の制度ではない。仏教では「心相続」「自業自得」というように、個人のすべての活動は、その活動を行う個人の精神に活動動機の経験(思)として蓄積(薫習)された「業」を我々は、債務免除されない債務のように無始以来、負の相続として相続してきて、同時に正の財産として形成した善業もまた、業が異熟して何らかの結果を生み出すまで、自然消滅するものではない、と考える。これらはあくまでも個々人の精神の連続体を想定しているものであり、その精神が活動するために必要となる身体をはじめとする様々な物的財産を「享受」することができる、と考える。自分の家族や属する集団を大切にすることは、自己愛の延長線上にあり、それらは慈悲ではない。つまり家族や親を大事にすることは社会的には素晴らしいことかもしれないが、慈悲というのは私的な愛情であってはならず、常に一切衆生を対象としたものでないといけない。何故ならば、心や精神を有する他者というのは、自分の延長線上にある自分たちの集団だけではなく、すべての生きとし生けるものを想定しなければならないからなのである。

自己に対して恩義のある存在であると知るべきであり、恩を感じるべきであり、その恩に報いようとすべき対象は、特定の家族や人種や社会、衆生であってはならないのであり、一切衆生を平等に見た上で、そのすべての衆生が幸福であることを心から望み、苦悩から逃れることを心から望み、そのために自分は寄与したい、と考える責任感をもったものが大慈大悲と呼ばれる心である。

仏教の業報思想に基づく慈悲心は、人種差別だけでなく、生物種の差別をも禁じるものである。すくなくとも菩提心を根本とする大乗の教えを奉じる者は、人種差別をしたり、生物の優劣などを差別的に想定すべきではない。日々の修練のなかで、「苦しみを望まず幸せを望んでいる一切衆生」というものを想定している者であれば、そのような差別的偏見を捨てるべきである、ということは容易に理解できるだろう。豪華絢爛な生活をし、他者を見下し、口先だけで仏法を語るような者は、釈尊の教えをあくまでも言葉だけで語るものであり、実際に日々の思考として、つまり善業としてその意味することを全く考えていないのである。そのようなものは、人々から差別され、罵声を浴びさせられながらも、その汚れ仕事は少なくとも誰かがやらなければいけないので、自分がやるしかない、と考えている不可触民たちの心情よりも貧しく卑しいものである、と本偈では説いているのである。

マハトマ・ガンディーは不可触民を「神々の子」と呼んで差別撤廃に尽力した。貧しい人たちに施しをする場合にも敬意をもって礼儀正しく行うことの大切さを仏教では古来説いている。他者の物質的な享受物を与えられてもないのに奪ったり搾取すること、それは絶対的な悪である「偸盗」であると解かれている。冬の凍てついた濃霧のなかは、通常の霧や靄よりも遥かに冷たく、人々の身体を刺すような苦痛を与える。我々すべての生物は、個体個体でそのような輪廻の激痛を同じように味わっており、その激痛は死後も継続している、このことを仏教はまず最初に苦諦であると説いているのである。

私たちはこんな北極の雁たちの小鳥に生まれる可能性も十分あるのである。


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