2020.05.12
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

牡丹は名誉を蓮に奪われるとも、牡丹も蓮も微動だにしない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第48回
訳・文:野村正次郎

愚かな者がいくら苦心し実現しても

その名誉は狡い者に奪われてしまう

山が生み出した蓮の華もまた

生まれた名誉を水に奪われている

48

仏教において蓮の花は、釈尊が泥のなかから生まれて美しい純白の花を咲かせることから仏法の象徴として貴重な花である。特に日本では法華経が重要視されたこともあり、白蓮は法華経を象徴する花としても有名である。

一般的に蓮は、インドでも別名「水生」と謂われてるように水生植物であり、水があるところの地中の地下茎から茎を伸ばし、湖や河の水面に葉を出して、そこで花を咲かせる。これに対してコケ、シダ、種子植物などは陸上植物と呼ばれており、狭義の植物は陸生である。海水中で生活できる植物は主として海草とよばれ、水草に分類されるものは、淡水の水中で繁殖できる植物である。

しかしチベットにおいて、このインドで自然に生えている蓮(パドマ・ペマ)は、気候がかなり違うため、チベットでは基本的には見られるものではない。チベット語で「蓮」と呼ばれるものは、湿生蓮・黄木蓮・根蓮という三種類が、「蓮」に分類されており、黄木蓮は牡丹であり、根蓮は蒟蒻である。したがってチベットの仏画でよく描かれる「蓮」には所謂日本語の蓮と同種類のものがあるが、牡丹が描かれることも多いのである。

チベットの仏画に八吉祥のひとつとして描かれる蓮(牡丹)

しかるに本偈の「山が生み出した蓮」というのは陸生の蓮、つまり牡丹のことを指している。牡丹にしても蓮にしてもチベットでは自然に生えている植物ではないためか、両方とも同じくらい貴重な花であることには変わりはない。チベットの人たちが「蓮」と呼んでいるものが、実は牡丹の場合が多い、ということは、随分と前になるが、馬に乗ってチベットのあちこちを旅している渡辺一枝さんに教えていただいた。渡辺一枝さんはゴマン学堂からやってきた高僧の方々に、その仕組みを丁寧に説明されており、チベットの僧侶たちも、そんなことを日本人が気づいて教えてくれるのは大変ありがたいことで、考えてみなかったことだ、と関心していたものである。

本偈では功徳が低く愚かな者がいくら苦労して、公共の福祉のために善なる仕事を実現したとしても、その名声や功績が必ずしも社会的に認められることはない、ということを説いている。その名声や功績をずる賢い人間がやってきてすべて奪っていくことはよくあることである、とここでは説かれている。社会は不公平なのであり、努力すれば必ず社会的に報われる、というものではない。そもそも善なる所業は名声や地位や功績が得られるために行うべきものではなく、絶対的に善なる他者を利益するための活動なのである。だからこそ、相対的な世間の評判や相対的な報酬や効果を期待すること、それ自体が間違っている、ということになるのである。

私たちの会ではダライ・ラマ法王がかつて一週間以上も宮島に来てくださって、日本ではじめて両部曼陀羅の灌頂の伝授会を開催させて頂く機会があった。無事に盛会に終わり、スタッフたちで「とりあえず無事に終わりましたが、あれで本当に受者の人たちはこれから両部曼陀羅の法を実践してくれるかどうかは疑問の余地が残りますので、成功したといえるんでしょうかね」と話していると、ゲン・ロサンがやってきて、「観音菩薩そのものであるダライ・ラマ法王が日本にも伝わっている両部曼陀羅の法を正式に伝授して、受者の心に習気の種が植えられたこと自体が素晴らしいことなんだ。彼らがいますぐその教えを大事にして実践するかどうかは問題ではない。何世代も転生を繰り返し、彼らがいつかその法を実践して仏二なろうとする時、この習気は必ず覚醒するのである。だからみなさんは反省会をしたり、打ち上げをするのではなく、善業を積んだこのことを随喜し、それを一切衆生が成仏するために役立てるように廻向することことが大事ですよ」とやさしく教えてくださった。

善なる活動というのは、名声や報酬のためにするものではない。純粋にそのことが他者を利益し、それがいつか必ず結果として果実を結び日がくる、という純粋な動機が必要なのである。努力が報われない不公平はあくまでも世事である。我々仏教徒にはこうした世事の八風に微動だにしない、強い不動の決意が要求されている。


RELATED POSTS