2020.05.11
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

濁った水という凶兆は、水が枯渇してしまう警鐘であるが、それでも未来を変えることは決して不可能ではない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第47回
訳・文:野村正次郎

家系を断絶させるため放蕩息子は生まれ

福徳を断絶させるため悪意は顕在化する

自らを破滅させるため知性は凶暴化する

水源を枯渇させるため濁った水が増える

47

これは凶兆がどのように起こるのか、というものを説いている。どんなに素晴らしい家系が何世代も続いていたとしても、盗みをしたり、博打をしたり、常に大酒を飲み泥酔し、常に周囲の人々に暴力を振るうような放蕩息子が生まれることは、その家族にとってはその家系の断絶の危機を示す凶兆である、ということである。

同様に、過去世から積集してきた福徳を破滅させてしまう凶兆として、悪意の顕在化している状態がある。自分自身さえも破滅させることの凶兆として、知性は煩悩に支配されるものとし凶暴化がある。これらはちょうどせっかく美しい水源があっても、そこに様々な原因によっていつの間にか泥だらけの濁った水が増えていき、次第にその土砂が累積していき、水源が枯渇してしまう状態と同じである。

凶兆の存在を認識することは、悲劇や災害が発生することを予測可能であるということであり、本偈では良くない未来が起こるためにこういう凶兆があるということを例示しているが、ここで重要なのは、たとえどんなにひどい凶兆が起こっていることを明らかに認識できたからといって悲劇や災害が起こる訳ではないことである。たとえ放蕩息子が生まれても、犯罪の更生施設に入り、まともな人間になる可能性もあり、悪意が顕在化していても、心を入れ替えて、上回る善意をより多く顕在化させることもできるし、凶暴化した知性を律して慈悲深く深慮できる知性へと変えることもできる。それはちょうど濁った水がどんなに増えても、それを上回る濁りのない水で土砂の濃度を薄めてしまえば良いのである。つまりどんなに不幸の原因が存在していても、その結果である不幸が起こらないようすることは不可能ではない、ということである。しかしながら、大体の場合には、そのような介入が行われないので、そのまま不幸な出来事が発生せざるを得ない、ということになる。そもそも凶兆が存在している時点で悲劇や破滅という結果が起こる機が熟しているのであり、その流れを変えることは手間であり、努力してやらないといけない、という問題がある。

これは原因総体の存在は、結果が生起し得ることと本質的関係にある、ということに依っている。たとえば品質的に問題のない甘い飴を、味覚障害のない人が口にしたとき、この飴は甘いという味覚の発生は妨げづらい。

ダルマキールティは『量評釈』のなかで、甘いという味覚を発生させるための原因が整っている状態を「原因総体」と呼び、ミーマンサー学派のように原因から結果を予測することも正しい推理のひとつあるという反論を想定して、これはあくまでも原因から結果を予測しているのではなく、原因総体の完備状態が、結果の生起が妨げられない状態の本質である、として原因から結果を推理する場合の原因は正しい論証因とはならない、ということを証明している。

ちょうどいまの状況で考えるならば、この詩篇の翻訳をはじめたころには、このままいくと指数関数的に感染拡大が起こる、という状態であったが、実際には人々が行動変容することによって感染拡大防止に現在ある程度成功しつつあることを考えるとわかるであろう。このように未来を変えるためには、ダルマキールティが原因総体の完備状態が、結果の生起が妨げられない状態の本質であると教えてくれているように、原因総体を敢えて完備させない状態を作り出すことしかない。味覚障害のない人が口にしたとき、この飴は甘いという味覚の発生は妨げづらいが、飴を口にした瞬間にそれが溶けだすその瞬間に苦い飴とすり替えてしまうのならば、この飴は甘い、という味覚の代わりに、この飴は苦いという味覚を起こすこともできる。吉兆や凶兆というのは、あくまでも原因総体が完備しつつあることを示す兆相である。

ダルマキールティが所作証因、つまり結果から原因を推測することは正しいが、原因から結果は確定的に推測できない、と証明するように、仏教における因果応報や縁起の思想は、決して神の意志によって運命が決定しているという運命論なのではないのである。仏教の説く「逆縁を善資へと変化させる」という危機や苦難の克服法は、このような因果関係に関する論理的な分析に基づくものである。

水源の水は濁っていない方がいいに決まっている

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