2020.05.10
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

どんなに曲がった河でも下流へ流れるだけである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第46回
訳・文:野村正次郎

悪意のある謀略の活動は

進捗は早いようだが破滅に至る

河川はどんなに彎曲し流れても

下流へと流れていくしかないように

46

悪意のある謀略計画は、同様な悪意をもつ者の支援を受けることや実行しやすいことなどが理由となり、その活動計画の進捗も早いものである。しかしながら、最終的には破滅に至る。このことを河がどんなに曲がりくねって流れていても、下へ下へと流れるしかないのと同じである、ということに喩えて理解することができる。

悪意とは具体的に何かといえば、その代表的なものは、貪瞋痴といった煩悩によって、他の衆生に損害を与えようという思いのことである。これらの悪しき意図によって動機づけられた行為・言動・思想は、これまでにも示されてきたように、過去世から習慣化しているので、実行しやすいし、進捗状況も善なる活動をするよりもはやく進行することができる。しかしその計画は、たとえ実施完了しない場合があったとしても悪業を積んでいるのには変わりはないので、最終的には苦受しか受容できない、ということになる。たとえ今世でその業の異熟を味わうことがなくても、来世において味わうことになるのであり、最終的には純然たる苦苦を生み出すということになる。

本偈では悪意ある行動の場合を述べているが、それでは多少善意が混じっている活動計画の場合には、どうなるだろうか。

善業は楽受をもたらすものであるので、十善業を積むことによって快楽を私たちは享受することが出来る。しかし、そこで得られる快楽は、あくまでも苦受の減少したものを快楽であると看做しているに過ぎないのであり、その快楽は快楽を本性とするものではない。もしもその快楽が快楽を本性とするものであれば、その快楽の享受が増大するのに比例して、快楽が増大しなければならない。しかし実際にはそうならないので、それは有漏の楽受と謂れて、苦へと変化していくものである。これを「壊苦」と呼ぶのである。本偈では悪意のある謀略計画が説かれているが、これと同じような原理で、多少善意が混ざった活動計画であっても、結果的に得られるものは、「壊苦」に過ぎないということを仏教では説いている。たとえば利己的な動機によって、自分の仲間や自分が執着している対象のみに利益を齎せたいという意思は、他の衆生に損害を与えたいというものではなく、他の衆生に利益をもたらしたいというものであるが、これはあくまでも利己的な動機によって裏付けられているので、そのことによって煩悩を増大させる可能性があり、煩悩を増大させる可能性がある限りそれは「有漏」と呼ばれるものであるので、結果的には良くても「壊苦」を産み出し、悪い場合には「苦苦」を生み出すことになる。

また結果的には苦痛でも快楽でもない感情しか与えない、無意識から生まれている、行為や言動もそれは「行苦」というものを生み出すことになる。釈尊は、すべての煩悩を増大させる可能性があるもの、それは聖者から見たら苦しみを本質とするものである、という苦諦を説いているが、三界輪廻を転生している限り、我々は苦しみ以外のどこにも終着点を見出すことができない。河の水が重力で高度が低いところに流れていくように、我々は業の力によって苦しみへと常に向かっている。このことが事実であり、真実であるからこそ、釈尊は苦諦というものを知るべきである、と説いているのであろう。

どんなに曲がった河も下流へ流れていく

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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