2020.05.13
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

空虚な言葉を数量的・音量的に増幅させても何も起こらない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第49回
訳・文:野村正次郎

教証の功徳を持たなくても

賢者の名声で人は欺かれている

栄養もない霧雨をもたらす雲が

龍のような雷鳴の声をあげるように

49

ダライ・ラマ法王が繰り返し語られていることに、我々が釈尊の弟子であり、チベットの仏教にしても、中国・日本の仏教にしてもナーガールジュナ(龍樹)やアサンガ(無着)に代表されるナーランダー僧院の伝統を継承するものである、という意識がある。そしてそのことを意識しながら、釈尊が説かれた教えの言葉とその思想を伝えていくことが仏教の伝法である。法王が携帯されている小さな僧侶の鞄のなかには、常に釈迦牟尼如来の小さな仏像が入っており、法王はよく「私のボスはこの方です」と言っている。仏教徒で有る限り、その全員が釈尊という共通の大先生の学生であり、その大先生の教えの通りに行動し、言動し、思考を巡らさなければならない。それが教説と証解の両方によって仏法を護持するということである。教説はことばであり、証解とは思想である。思想といっても、特別な観念的なものではなく、事実や真実に基づいた、正しい思想でなければならない。仏教はことばと思想によって伝承されており、その教えを説いた教師のもっとも主たる存在、それが釈尊であるということになる。

教説と証解の二つは、因果関係にあるものである。言葉によって意味が伝えられ、その意味する内容を実現することによって精神に生じるものが、証解や思想と呼ばれるものである。僧侶たちはより多くの教説を聴聞することによって、様々な思想を心に再現することができるのであり、その訓練を繰り返すことによって、最終的に一切衆生の心の機根に従った法を説ける仏の境地に到達することができる。しかるに仏教と聞いて、僧侶の姿や僧院や仏像や僧堂といった物質的なものを想像することは誤りなのであり、仏教というものを考えようとしたら、まずは四諦や二諦などが想像できなくてはならない、と法王は繰り返し説かれているが、これは『倶舎論』や『現観荘厳論』で説かれている考え方を紹介されているものである。

言葉や思想というものは、実は物質的な量によって比較することができるものではない。それらは質的なものであり、言葉や思想を有する複数の人間を質量的に計測することは、精神文化のもつ価値を、物質主義的な視点によって、過小評価していることにほかならない。釈尊の言葉は、一文字、一言でも無限の衆生を救済するが、空虚で意味のない言葉をいくら数量的に多く発生させても、それはほとんど無意味である、ということを本偈では説いている。霧雨をもたらす雲は、大地に水分という養分をもたらすことはないが、大きな音で雷鳴を時々鳴らせているように、音声としての言葉をいく数量的に多く発生させたとしても、質的に高い内容を伝達することもできないし、それによって発生させる高い境地である思想や証解も期待できない、ということを本偈では説いている。

名声や評判というのは、少数意見ではなく、多数意見である。多数の人間が同調し、多数の人間がそれと同じ言明を繰り返し発することによって、名声や評判というものを高めることができる。現代の市場戦略ではこのことを利用して、より多くの差別化した言葉を発生させることによって、市場における認知度を高め、販売したいものの価値を記憶に残りやすい形で提示し、その販売対象となる商品の価値を認知させることにより、購買行動へとつなげようとする。しかしそれらのすべてのことは、商品そのもの物質的な価値とは無関係な付加価値に過ぎない。

チベットには大根の苦しみを説くラマという話がある。かつてチベットには大根の苦しみを説くラマがいた。このラマは大根というものが、畑から抜かれ、人々に切られて、鍋で煮られて、食べ残ったものはそのあたり捨てられて大変かわいそうだ、そのような感情が慈悲の心である、と説いていた。彼の話は一世を風靡し、この大根の苦しみの話を聴聞するために、大変大勢の人たちが集まってきていたという。インドの大学者であったアティシャは最初にチベットにやって来た時には、チベット語が分からず、これからチベット人たちに仏教をきちんと教えないといけないので、その準備の一貫として、まずチベット人たちが、どんな法話に感動し、どんな法話が説かれているのかを知るために、この大根の苦しみを説いているラマを偵察しにいったようである。そしてそのラマが説いているこの大根の苦しみの話をチベット人たちがえらく感動して、聞いている姿をみて、このチベットできちんとした仏教を説くのは非常に難しく、自分にはその才能がない、と愕然したとのことである。

アティシャはその後、チベットで多くの法を説き、菩提心に関する法話を沢山行っている。アティシャは今日でも有名な因果七訣法や自他等換法という二つの大きな発心作法をチベットで定着させたインドの大学者であるが、最初はチベットでは賢者と名高い大根の苦しみを説いているラマとその弟子たちの姿に驚愕したのである。

仏教における言葉や思想というものをそのような物質主義的な観点で考えてしまうことは本末転倒なのであろう。今日の日本では、釈尊の説かれた仏教はもう古い教えなので新しいバージョンの仏教が必要であると考える者がいたり、仏教には教義はない、と好き勝手なことが書かれている本が大量に印刷され、市場戦略によって流通している。今日では、書物の価値というのは、消費しやすい、分かりやすい、ということや市場において販売実績の部数が多い、という数量的な価値観によって判断されていることが多い。しかしそのようなことで判断するのは、大根の苦しみを説くラマの話に感動しているのと同じくらい馬鹿げたことである、と我々は考えるべきだろう。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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