2020.05.09
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

湖は星や月を輝かせて見せてくれるが自らの底を見せはしない

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第45回
訳・文:野村正次郎

他者の功徳や過失は見えやすい

しかし自己の所作は見えにくい

湖のなかに空の星や月のすべてが

輝いているがそれ自体の底は見えない

45

ディグナーガとダルマキールティが大成した、仏教の認識論・論理学によれば、正しい認識(量)は二種類しかなく、それは知覚(現量)と推理(比量)の二種類である。このうち推理には、「自己のための推理」(為自比量)と呼ばれる、知そのものである推理知と「他者のための推理」(為他比量)と呼ばれる、言表そのものである推論式との二つが有るが、後者はあくまでも言葉であるので、推理そのものではない。推理は「正しい証因に基づいて計量対象を新規に欺かれず知る知」と定義されるものであり、いかなる衆生であろうとも、仏であろうとも正しい知とは、この知覚と推理のどちらかに分類されるものである。

正しい推理の根拠となるもの、即ち論拠/証因を分類すれば、推理対象となっている秘匿体に対して、推理対象が有している自性であるもの、推理対象の所作(結果)であるもの・推理対象の不認識という三種に分類することができる。たとえば「声は無常である。作られたものであるから」という場合には、自性証因であり、「煙がある峠には、火が有る。煙が有るから」という場合には所作証因であり、「瓶を欠いたこの場所には、瓶は無い。顕現し得るのに認識できないから」という場合には、非認識証因となる。前の偈でも説かれていたように、他人の功徳や過失は、他人の表面的な行動や言動にその所作が結果として現れているので、結果の存在から原因となるものを推理する、ということになる。これに対して自身の功徳や過失というのは、結果として表れている表面的な自己の行動や言動として表れているが、自己の所作自身を自分の知が対象として、直接知覚することはないので、結果として表れている自己の所作は、近く不可能なものであるので、そこからその原因である自分の心のなかにある功徳や過失というのを正しく推測できない、というのである。

このことの例として、湖のなかに天空の星や月などのすべてのものが光り輝いて反射して見えているが、湖がどんなにそれらを輝かせて見せていたとしても、湖が湖自身の奥底を見せることはないのと同じように、私たちの知が私たち自身を知るということが困難である、ということをこの偈では示している。

ある知がその知自身を認識するもののことを正しい知覚のなかに分類し、それを「自己認証」(自証)としてたてる学派は、経量部・唯識派・瑜伽行中観自立派の三派であるが、彼らにとっておもこの「自己認証」(自証)というものは、非常に特殊な状態を表しており、知・心・識・意識の本質は、他者を照らし出して認証することにあり、すべての知は基本的には「他者に対する知」であると言わなければならないので、自己認証を認める学派であっても、この自己認証のことを「自己に対する知」とは謂うことはなく、「単なる経験」というように説明されている。自己認証は、青を見ている知から生成された、青の記憶と青を見た記憶とのうち青を見たという記憶は、知自身の記憶でなければならないので、青を認識する知とは別に青を認識する知自身を認証している知が存在しなければいけない、という論理によって自己認証を認める学派は、自己認証というものを知覚の分類に加えているが、この知は青を認識する知という他者を認証しる知である、というのが自己認証を認めない学派の主張であり、そのように主張するのは、毘婆沙師・経量行中観自立派・中観帰謬派となる。

チベット仏教が中国や日本の仏教のもつ伝統と大きく異なっているのが、このようなディグナーガやダルマキールティの大成した仏教の認識論や論理学をすべての教義のベースにしていることである。ディグナーガやダルマキールティの大成した仏教認識論・論理学は、もちろん中国・日本でも因明学の伝統として若干あるが、僧侶たちが毎日朝から晩までこのような認識論や論理学によって問答をし、教義を学習している伝統は、いまはチベット仏教にしか残っていない。チベット仏教が継承しているこの論理学の伝統は、無形の世界文化遺産であり、現在中国の圧政によって弾圧を受けてはいるが、デプン・ゴマン学堂をはじめとして、ダライ・ラマ法王の指導もあり、いまもインドの亡命居留区では、その活きた伝統は継承されつづけている。


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