2020.05.06
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

すべての心は澄明な清流のように発光し生命の恵みをもたらしている

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第42回
訳・文:野村正次郎

賢者は身分の上下や貧富など

どんな境涯でも本性は変わらない

河は流れる場所で寒暖があろうとも

湿って濡れた本性を何故捨てようか

42

人が境涯というものには、さまざまな変化がある。時には特権階級や地位が高くなることもあるが、冷遇され、地位が低い時もある。経済的にも豊かな時もあれば、経済的にも困窮する場合もある。短い人生のなかでもこうした差は存在するので、この生を繰り返し三界輪廻を徘徊している場合には、もっと大きな変化がある。時には神々を従える神の首領となることもあるが、時には他の衆生からは見向きもされない、小さな微生物として生まれることもあり、また時には地獄や餓鬼に生まれることもある。これらはすべて私たちが受容しているものの差異にほかならない。

通常私たちは、こういう自分たちの受容する環境に作用されて、一喜一憂している。宝くじがあたれば、大喜びするし、文無しになり明日の食べ物にも困るようになれば、自殺したりする人もいる。

しかし賢者というのは、そのような存在ではない。賢者は、いつも優しく、いつも賢く、どんな時も高潔で、人々から尊敬され、人々から愛される。聖人や賢者の有する徳は、外側からみれば、それは増減するようなものに見える。しかし我々には到達できないような、決して変わることのない、無限の徳が備わっているようにも見えるだろう。彼らは安定し、細かいことで惑わされない。常に正しく深く考え、正しい判断を行っている。聖人や賢者は我々のように周囲の環境要因に作用される者ではなく、精神の主軸は堅固にして能動的な主体である。

仏教では心性本浄論というのがある。心もしくは精神というものは、発光体であり、対象を照明して認証する性質が本質としている、という考え方である。このように心性は本浄であり、煩悩は客塵である、というのは、煩悩というのは明るいランプの表面についた汚れのように、発光し照明する作用に影を落とすものであり、煩悩を断じるというのは、この影を浄化してやる作業である、ということになる。

賢者の精神は、凡俗なる我々よりも、はるかに高い輝度をもって、周囲の環境要因を照らしている。だからこそ、小さな環境要因の差異に作用されず、すべての対象の本質を照らし出すことができる。精神の救済にしても平静にしても、または快楽にしても、精神の側から周囲の環境要因へと向かう方向性にあるのであって、外側から内側に何らかの作用が起こっているわけではない。すべての現象は、こちら側から照らし出し存在しているものであり、我々の精神の外部から無関係に存在していない、ということが空であり、無我であるということとなる。

ヒマラヤの奥の雪山がゆっくりと溶け出して、チベットの河川は流れてゆく。その河の流れは様々な環境要因によって姿を変えながら流れてはいる。人々に水をもたらし、それは生命の維持に必要な恵みとなる。時には暑い熱帯の砂漠やジャングルのなかを流れていくし、時には万年雪の凍ったクレパスのなかを流れているが、それは常に、太陽光や月光を反射し、光り輝きながら、水としての存在感を変えることはない。

我々のような凡夫もまた仏たちの精神もこれと同じように、本来発光し周囲を照らし出す本質を変えることはない。さまざまな肉体や境涯は変わろうとも、この本質は常に同じものであり、それは透明な清らかな水のようなものである。


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