2020.05.05
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

仏教とは先天的な犯罪者のための再犯防止を目指した更生保護プログラムである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第41回
訳・文:野村正次郎

犯罪者はたとえ更生しても

僅かなことで再犯してしまう

小さな流れがどんなに変わろうとも

元の大きな流れへと戻っていくように

41

本偈は悪業からの更生が如何に困難であるかを説くものである。悪業・罪業と犯罪や違法行為は若干質的には異なっているが、その両者を対照して考えてみると、悪業や罪業というものが、他人事ではない深刻な問題であることに気づくであろう。

犯罪者が更生するということは非常に困難である。我国の法務省の発表している犯罪白書によれば、現在の我国の犯罪者のうちの約3割が再犯者で、その再犯者たちが、国内の事件の約六割を起こしている、という。このために法務省では、犯罪や非行をした人が社会に戻った後、再び罪を犯さないように指導・支援する取組み「再犯防止対策」をすすすめている。これは犯罪からの更生が如何に難しいのか、ということを示すものであろう。完全に更生したように見えても、さまざまな社会的な要因がきっかけとなり再犯者となってしまうケースが多い、というは極めて深刻な問題なのである。(法務省・再犯防止対策

再犯率を減らし、犯罪を減少させるための対策は、世界中のすべての国家が同じようにやっていることは確かである。しかしながら、犯罪を完全に消滅させることは不可能に近い。何故ならば、常に新規の犯罪者を根絶させることができないのであり、その犯罪の動機を根絶させることが不可能に近いからなのである。犯罪の動機には、競争心・執着心・狂気・暴力・怨念など様々なものがあるが、人類の社会の歴史は、狂気と暴力の歴史でもある。

仏教のように創造主による人類の創造説を唱えない宗教的世界観に基づけば、犯罪というのは単なる社会的な問題であはない。刑法上の犯罪を起こしてはいないけれrども、悪業という犯罪を私たちは繰り返している。悪業のなかには無表業に分類される、物理的に実行されたり言語化されないものも含まれている。たとえば懈怠によって無為に過ごしていることも悪業を犯していることに他ならず、そのことによって得られる結果は、快楽ではなく、苦悩でしかない。この場合には、社会的には何らの犯罪を犯しているわけではないが、ある特定の期間、犯罪を起こしているわけであるので、その行為者は、その犯罪に対応した結果たる苦受を得ることに異なる。

煩悩と業の集諦によって、純然たる苦蘊が生じるというのが四聖諦の前提にたてば、一切衆生はすべて狂気を有しており、一切衆生はすべて犯罪者である、ということになる。煩悩と業のなくなった状態は、犯罪の動機を根絶した状態であり、その結果、犯罪の犠牲たる苦もなくなるのである。これが滅の状態である。修道論的にいえば、煩悩の撲滅は見道以上にならないとはじまらないので、それまでは犯罪から完全に更生することは難しいということになる。

社会的犯罪を撲滅するための施策として、刑罰を重くすればいい、というものではない。むしろ犯罪者を全面的に支援し、矯正し、更生させなければ、再犯の可能性をなくすことはできないし、それには更生・保護、さらには社会復帰のための仕組みづくりが必要となる。つまり人間社会の善意がなければ、犯罪を撲滅することはできず、犯罪者に対しても社会復帰の可能性を絶ってしまうわけにはいかない。犯罪者を村八分にしたり、すべての犯罪者を処刑したからといって犯罪が撲滅できるわけではないのである。

狂気に満ちた生物の宿命・宿業を矯正し、更生保護する、ということは、仏教的な世界観で考えると無限の慈悲が必要であるという論理となる。アルコール依存症や薬物依存症の再発予防のためには、十分な矯正プログラムが必要である。同様に我々が煩悩を克服するためには、十分な矯正プログラムと周りの支援が必要となる。犯罪者にとっての救済というのは、決して恩赦にすることではなく、再犯者とならないような更生のための支援であるが、同様に仏教における救済というのは、煩悩による罪業という犯罪を冒してしまう者に対する更生プログラムということになるだろう。

ヤルルン・ツァンポ

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