劣った者たちはすぐに悦ぶだろう
その悦びをもすぐに翻すのである
遠くへとは流れない小さなせせらぎは
時に川幅や嵩を増すともそれは一瞬である
卑近で目先のことしか視界に入らない人がいる。私たちを取り囲んでいるこのすべての出来事は、実はそれほど驚くべきものでもない。そして特段目新しい立派なものでもなく凡庸なものである。人類の長い歴史、自分たちの様々な記憶、そういうものを遡ってみるならば、いま私たちの目の前にあるこの特別感にあふれている現象が、通りすがりの出来事に過ぎないことを思い出せるものばかりである。しかしながら、私たちの視界を魅了するもの、それは時には様々な演出によって荘厳され、脚光を浴びている。脚光をあび、人気を博しているもの、私たちはその虚構に与することにより、凡庸で何も取り柄のない自分たちが脚光を浴びているような錯覚を得るのだろう。
現代の消費社会において、こうした誇張や錯視の手法は、戦略的に利用されている。商品化は、なるべく新しいものであること、特別なものであること、他のものから優位であることが、絶対的に素晴らしいことであるかのように扱われる。値札の横に書かれている商業広告の文言は、冷静な思考や冷静な分析を拒んでおり、戦略的に情報は省略され、その優位性を訴求している。さらにそれらには時には評判、口コミというものが添えられて、それを見て冷静に判断しようとする人々の思考を恣意的に阻害する。物体の購買行為は、その物体に付加された戦略的な優位性を獲得し、自己の所有物へと蒐集されることで、それを所有する者の優位性を保証するようなものとして機能している。自己の優位性を保証してくれるものが与えられることは快楽であり、それは獲得すること、あるいは所有することによってのみ、その物質の価値を与えてくれるものである。しかるに、もはやその物質を入手したり、獲得した後は、すぐにその快楽はなくなってしまうものである。
二十世紀の偉大なる芸術家のひとりマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp, 1887–1968)は、我々のもっとも身近にある既製品(ready-made)の現象体を抽出し、リチャード・マット氏(R. Mutt)に託して「泉」(Fontaine, 1919)という名づけて、ニューヨーク・アンデパンダン展へ自分で5ドルを払い出品した。デュシャンはその後、この作品のレプリカをつくり、そのひとつは今日は京都国立近代美術館に所蔵されている。有名な道元禅師の『正法現蔵』の「現成公案」とは英訳するのならば「レディメイド」のことである。
禅とダダとは無関係ではないが、今日それらの関係性や普遍性を考えようとする禅宗の僧侶は非常に少ないことは確かであろう。デュシャンの墓碑には「されど死ぬのはいつも他人ばかりなり」と刻まれたが、デュシャンの仕事は、荒川修作たちによって継承され、今日では養老天命反転地に「極限で似るものの家」などとして静かにその流れはいまも静かに小さなせせらぎとして流れつづけている。
