2020.04.27
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

大海の波のように気高い小さなせせらぎのように

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第33回
訳・文:野村正次郎

悪しき種族を僅かに得ていても

王族のように気高くあればよい

険しい崖を流れるせせらぎも

大海の波のように轟いている

33

六道輪廻における転生というのは、人が人に生まれるということではない。私たちはいま人として生まれているが、ここで死を迎え、次に生まれた瞬間に、視界もはっきりとしない、音はすべて個別には聞きとることもできない大音量の騒音で頭がおかしくなるような音しか聞こえなく、動こうと思ってもどこにも動けず、ただひたすらどこかに閉じ込められた寄生虫に過ぎない生を迎えなければならないこともある。私たちは来世において、顕微鏡でしか見ることができないような小さな小さな生物に生まれるかも知れないし、巨大すぎて誰も生物であると思うことができないような巨大な星として生まれるかも知れないのである。

たとえ、人に生まれ変わることができたからといって、必ずしも幸福であるとはいいづらい境涯というのはある。生まれたその瞬間から食べ物も飲む水もなく、飢えと渇きに苦しんで、親兄弟は、食料品を買うお金をすべて武器に使い、友達と遊ぼうと思って路地をあるいていたら、地面のなかには地雷が埋まっており、思わず踏んでしまい片足がなくなってしまうこともある。すこし大人になれば、武器をもって他人を殺さなくてはいけないこともある。そんな運命から逃げ出そうとしても、あたり一面は砂漠であり、どこかに逃げ出してもすぐに捕まってしまい、鞭打ちの刑にあったり、自分がかわいがっていた兄弟は人質に取られ、ある時には社会のためだと言われて身体中に時限爆弾を背負い、自爆テロのためにバスに乗らなければならない。心の底のどこかにこの運命に対して何か違和感を感じるかもしれないが、自ら爆死するその3秒前には同じバスにのってる無邪気な少女が微笑みかけたりしていることもある。

小さな子どもの時から、拷問や虐待と差別、暴行のなかで暮らさなければいけない人たちもいる。現代は奴隷制度はないはずで、基本的人権が認められている社会だとはいえ、その社会全体は立派かも知れないが、自分の周りの環境はまるでそのような理想郷とは程遠い世界に生まれ育つこともよくあるのである。

仏教の修行というのは、今生で終わるものではない。極楽往生をすることができたり、兜率天にゆくことができることも確かにあるだろうが、何かの隙にさまざまな悪しき境涯に生まれてこなければいけないこともあるのである。だからこそ、この先どんな境涯に生まれたり、どんな困難に遭遇したとしても、決して我々は自ら高潔であり続けよう、という気持ちを継続させることは非常に重要なことなのである。たとえ盗賊の家に生まれようとも、盗賊になることはなく、たとえ殺人鬼の家庭に育とうとも殺人鬼になってはならない。どんなに生まれが卑しくとも、常に気高くありつづけようとすること、これは強い意志の力が必要なのである。たとえ野良猫に生まれようとも、百獣の王のライオンのように気高く振る舞うこともできる。

私たちの人生は私たちだけのものであり、誰か別の人の人生を生きる必要はない。険しい崖を落ちていく細いせせらぎであっても、大海の波が静かに静寂の音響を轟かせるように、私たちはたとえどんな境涯に生まれようとも、釈尊の教えを道標として気高くあるができるはずなのである。


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