2020.04.26
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

臆病で慎重であるという美しさ

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第32回
訳・文:野村正次郎

弱々しいのに粋がると

危険な崖へと落ちてゆく

水では暴れて泳げる魚でも

乾いた大地では死んでしまう

32

我々は自分のことを過大評価してしまう傾向にある。しかるに出来るだけ、そのような慢心を捨てて控えめに暮らすということが大切である。もしも自分には大した能力もなく、精神的にも臆病で、弱々しいにも関わらず、自分の能力に器には合わないことをしようとすると様々な危険がやってくる。このことを本偈では、水の中ではどんなに暴れて泳いでいる魚であっても乾いた大地の上では、何もできず死んでいくしかないことに喩えている。

この偈を読むと、弊会の創始者であった先生ケンスル・リンポチェのことを真っ先に思い出す。ケンスル・リンポチェはゴマン学堂の管長になられたので、「リンポチェ」になられたが、ラサの近くのキチュという川のほとりの小さな村でお生まれになった。実家はゴマン学堂の寺領を耕している家であったし、その寺領はダライ・ラマ法王の摂政を努めておられたタクタ・リンポチェの管理下にあったので、出家してタクタ・リンポチェが尊敬されるホル出身でギュメー学堂で教授をされていた師匠の自坊へと預けられた。師匠は大変厳しく怖い先生であったので、何度も叩かれ、あまりに恐ろしいの勉強を一生懸命頑張ったとのことである。本当はそこまで勉強したかったわけではないが、怖い先生とたった二人で暮らしているので、逃げ出すこともできず、一生懸命学問をした。タクタ・リンポチェは時々そこを訪ねて来たが権力者であり威張っているので、あまり好きではなかったらしい。

そのうち中国の軍隊がやって来て爆弾の雨を降らせ、政情も不安定な日々が続いたが、僧侶をやめてゲリラになる勇気もなかったので、とにかく僧侶としての学問に集中した。1959年には、師の指示に従いデプン僧院の裏山を逃げてインドに亡命した。難民となった後には、チベット復興のために還俗してゲリラになってチベットに戻るという話もあったが、それも恐ろしいので、とりあえず学問に専念した。そのうちダライ・ラマ法王から選ばれて東洋文庫に派遣されたので、とにかく東洋文庫では日本人の研究者たちの要望に応え、真面目に暮らした。途中でダライ・ラマ法王からゴマン学堂の管長になるように命じられ、三年間はそれを努めたが、管長職は若い僧侶たちを叱責しなければならないのがどうしても辛いので、法王にお願いして三年間で辞退して、また東洋文庫に戻られた。

ダライ・ラマ法王からは日本の代表にならないか、ナムゲル学堂の僧院長をやってくれないか、モンゴルに行ってくれないか、という様々な打診はあったものも、そんな重要な仕事は自分の器ではない、とお断りし、自らの師匠が果たせなかった怖畏金剛尊の行を終え、会議に参加しなくていい、仏典を教えるだけでいいという条件でまた日本に来てくださった。日本人のために怖畏金剛尊の灌頂を授けて欲しいと我々も願ったし、ダライ・ラマ法王もそれをやりなさいとおっしゃたが、自分はそんなに立派な人間ではないと常に断られていた。

先生が日本に滞在して下さっていた最大の理由は、そのままインドにいるとデプン僧院座主になる順番が来ていたからにほかならない。私たちはその代わりに日本で正式なチベットの僧院としての活動を始めたり、ダライ・ラマ法王をお迎えする事業をはじめたりしたが、法王をお迎えし、法王からは龍蔵院でクンケン・ジャムヤンシェーパの代理として頑張りなさい、と激励された時、心の底から、こんなに自分の器に合わないことをやるべきではなかった、と反省されたと後におっしゃっていた。先生は「大人しい」「弱々しい」(ニャムチュン)ということを常に美徳とされていた。「勇ましい人」「英雄」(パオ)であることは恐ろしいことであり、自分たちの器ではない、と考えておられた。

孟子には四端説というものが説かれており、惻隠・羞悪・辞譲・是非という者は、仁義・礼・智の要因となる重要な概念である。ケンスル・リンポチェはチベット仏教を代表する学僧であり高僧であり、儒教とはまるで関係のない方ではあったが、その人物を描くための日本語として、この四端の美徳こそ、チベットの高僧たちが有している美徳を上手く表現できる言葉は見当たらない。

「弱々しい」(ニャムチュン)ということは力を誇示しないことであり、「英雄」や「伝説」にはなれないが、控えめで「調度のよい」(タクター)の状態を美徳とするものである。チベットの仏教や無上瑜伽タントラの教えは、外側から見れば、非常に奇怪で奇抜なもののにように感じるし、現代ではそのような側面を強調するような出版物も多く存在しているが、決してそのようなイメージではない。「大人しい」「弱々しい」ということは心を常に自分の方に向け、自己の静謐な精神の営為と深く対話しているということであると思われる。チベットの高僧たちの実直な生き様はこのことを教えてくれていると思われる。

美しい熱帯魚は危険から隠れている

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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