2020.04.24
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

すべての者たちが集う妙えなる交響曲

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第30回
訳・文:野村正次郎

知性があり善良なる人のもとへ

上中下のすべての者たちが集う

安全な津梁のある池のなかへ

人はみな歓び進んでゆくように

30

釈尊が説法をすると様々な衆生たちが自然に集ってくる。本偈では安全な桟橋や渡し津梁がある池には誰しもが入りやすいというが、チベットでは池は田畑のための貯水池として使用したり、温泉がでる場所では浴槽として使用したり、単なる水浴びのための場所として使用したり、様々な目的で使用されている。

これと同じように釈尊の説法は様々な目的を持って集ってくる聴衆が様々目的によって使用するものである。これを対機説法と呼ぶ。釈尊が説法をすると集まってくるのは人間だけではなく、天界の神々、さまざまな階級の人たち、龍や夜叉やガンダルヴァ、よく分からない生物も集まってくる。それと同じように釈尊の説法には、来世に人天に生まれるためにそれを求めるもの、輪廻を厭い解脱を求めるもの、一切衆生のために仏位を目指す者、といった様々な聴衆が集ってくるものである。

釈尊の説法の声は、永遠に耳を傾けても、決して飽きることのない、妙音の調べを奏でている。その内容は、無数の衆生たちに、機根に応じた必要な教えを伝える。仏教は、言葉と思想によって継承される。法灯の継続は、言葉という音響現象として発声され、その音響現象が時空を一定時間支配する。この時空の振動は、他者の心象風景にゆらぎを作り、結果的にある殊勝なる理解を生じる。釈尊の説法は、来世に人天に生まれるためにそれを求めるもの、輪廻を厭い解脱を求めるもの、一切衆生のために仏位を目指す者、といった聴衆の意思によって、別々の意味を与える。それは人間だけの言葉で話されるものではなく、神々の言葉、龍の言葉などの複数の衆生の言語によって語られているものである。

このようなことが可能になるのは、その音響現象の塊りが複雑な倍音を含むものだからだろう。ひとつの音の塊りが複数の音に聞こえるという現象は、実はそんなに難しいことでもないし、不可思議な現象を説いているわけではない。

たとえば、ある交響曲をオーケストラが奏でる場合には、楽器ごとに声部に分けられていながらも、一つの声部を担当する複数の演奏者が同じ音符を奏でる場合を想定するとわかりやすい。第一バイオリンと第二バイオリンが別の音符を奏でていても、第一バイオリンの声部を担当する何人かの演奏者の演奏する音符は、楽器も異なるしチューニングも異なるし、指遣いなども異なることから、同一の音符を演奏しても微妙に異なる音階を奏でることとなり、それによって倍音が発声する。耳のいい聴衆や指揮者たちは、そこでたとえば微妙に間違った音符を誰が演奏したか聴き分ける能力を持っている。しかし、その聴き分ける能力を持っていない聴衆にとっては、たとえオーケストラの数人が時々音符を間違えて演奏しても聴き分けることができない。

これと同じように生物によって聴取可能な音域には差がある。人間が聴いている音声は、10Hzから20KHzくらいだが、犬笛は大体16KHzから22KHzくらいに設定され、20KHz以上は超音波と呼ばれ、音波以上の高周波の振幅数を持つ波動は電波や光線な放射線などがある。釈尊の説法が様々な衆生に様々な言語で同時に語られたというのは、現代風に言えば、マルチバンドの帯域を持つ波動現象を釈尊は作りだし、それによって様々な聴取者に対して必要な情報を配信したということになる。「ブッダは沈黙によって語る」という場合にも、これと同じことが言えるのであり、特定の帯域しか受信・聴取不能な波形で語っている場合は、そのように見えるということになるのであろう。

釈尊の説法の言語が、もし卑俗な自然言語であるとするのならば、無数の衆生のための対機説法と呼ぶことはできない。しかし大乗にしても、さまざまタントラにしても特定の聴衆をターゲットにした説法が存在したということは、全体とは別に個別に説かれたのであると考えることは難しい。むしろ現在の交響楽の中に様々な声部があり、様々な和音を奏でいるのと同じように、全体としてひとつの現象の波動を分化して聴取できるという現象を想定する方が、自然な解釈ではないかと思われる。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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