2020.04.23
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

厳格で顰面の拈華微笑

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第28回
訳・文:野村正次郎

悪友の娼婦の妖しい微笑より

武骨で乱暴な顰面は吉である

春の薄雲がどんなに白くとも

黒い雨雲の方が農民を益する

29

真実や善業というのは真摯にして厳格な面持ちをしているものである。真実は時に人々にとっては恐怖であり、善業は多くの人々に取っては時には堅苦しいものである。これに対して虚構は時には歓喜であり、悪行は自由奔放で妖艶である。真実や善業は高貴なものであり、虚構や悪業は卑俗なものである。

一般的には我々は高貴なものよりも、卑属で面白可笑しい物を好む傾向にある。これを卑俗主義ということができるだろう。これに対して高貴なものは、特権階級が独占しているもののように錯覚され、鼻持ちならない高邁なもののように、卑俗主義者は分類し、その高貴なら地位が見事に落とされて、低俗なじぶんたちと同じ場所に降りてくることを喜びとする。週刊誌などの暴露記事などがそれにあたるのである。

卑俗主義者が持っているなにか特別視されていることへの異様なほどの憎しみが発露した世界は、実に醜い荒廃とした世界である。しかしながら、卑俗主義者たちの希望はそのような荒寥とした世界の実現にある。感染症にかかってしまった人々への差別・蔑視、医療機関の従事者に対する無言の暴力など、現在私たちが生きているこの日本でもこういった卑俗主義者たちの横暴は止むことはない。基本的人権が保障されているこの社会では、どんなに低俗な言論であろうとそれは表現の自由の保護対象になる。

しかし我々に本当に必要なのは真実や善業であり、虚偽や悪業ではない。虚偽や悪業は、更に別の虚偽や悪業を常に必要として止まることを知らないものである。虚構や悪意のいくつく先は、悲しき悪循環、そしてその末の絶望と破壊、そして悲劇である。悪友は、妖艶な娼婦は、満面の微笑を持ち、甘く美しい声で囁いて、弱い心のものたちを魅了してかのようである。これに対して武骨で乱暴で顰め面で、真実を語り、一人黙々と善業を行う者もいる。我々は後者の方を吉としなくてはならない。春の薄雲がどんなに白くとも雨を降らせることはなく、夏のどす黒い雨雲の方が、雨を降らせ、農民には畑に恵みをもたらすことになるので、そちらの方が利益が多いのと同じであるからである。

チベットの高僧たちもこれと同じように常に大変厳格である。常に自らに向き合い、真実や仏典との静かな対話をしている。ダライ・ラマ法王にしても、来日中に様々なところを訪問されて、様々な人々を笑顔にさせているが、大変厳しい表情で極めて適格で高尚な助言をされることも多い。

罪業を懺悔する時に、諸仏の仏前で、自らの為した悪業をすべて包み隠さず吐露し、そのことに反省をし、もうしないと誓わなければならない。もしも諸仏がどんなことでも許してくれそうな、卑俗な笑みを浮かべているのならば、本気で我々が反省することなどできないだろう。厳格で全てをお見通しであるからこそ、諸仏の慈悲というのは大変ありがたいものなのである。諸仏の拈華微笑、それはある厳格で畏敬の念でこちらが畏縮しなければならないようなものではないかと思われる。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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