2020.04.15
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

激しい渦潮のなかに魚も住まないように

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第22回
訳・文:野村正次郎

傲慢で粗暴な主人を

誰も信頼することはない

激しく乱れた渦のなかに

どんな魚も住みはしない

22

人間は生来、自己本位に物事を思考し、それについての発言を行い、行動を行っている。個々の人間は各々恣意的にその営為を行なっているが、ある特定の思考や発言や行動を継続することは極めて困難なことである。何故ならば、確定した同質の思考・主張行動をするためには、様々な条件下においても表面的な変化をもたらないある程度の深い洞察や一定の感情を継続する深層的心理状態を持続しなければならないからである。

外部である他者と関わることなく、完全に孤立して生きている場合には、それも若干やりやすいのであるが、完全に孤立して他者に接触しないで生きることができないので、他者との接触し、それによって自らの行動・言動・思考へと波紋現象が起こる。本来自己本位であるにも関わらず、他者との関係性のなかで、自己本位な思考や言動は小さな影響によって、少しずつ揺らいでいく。それによって感情の起伏が生じ、時には眠っていた感情や思考が表面化するのである。表面化した激情の揺らぎが増幅していくことで、遂にはそれが自己本位には制御不能な状態に陥ってしまう。自己本位には制御不能な状態に陥った本能は、遂には激情化しながら、他者の影響下において自己存在が埋没化しないように、ある意味で自己防衛本能によって、暴力化し、横暴な思考・発言・行動へと移っていくのである。

本偈ではこうした表面化した激情をもつ権力者を他者は支持しなくなるということを説いている。それぞれの個人が他者と接触するとき、他者との関係を構築するためには、相手の思考・言動・行動が一定であることが期待されているからであろう。いつも考えていることが異なっていたり、いつも言動に変化があり、いつも行動に変化がある場合には、何かの期待をしても裏切られることが多くなり、その者と関わって得られるような期待値が低下してしまうからである。本偈ではこれを渦のなかには生物が住めないということに例えており、その者のことを権力者に例えているが、これはひとつの誇張的な表現であると考えることができる。暴君や渦のように外部から見て分かりやすい存在であれば、本偈で説かれていることは単に世間的な諺のようなものとしての趣向しかないものであるが、暴君や渦を我々ひとりひとりの存在に潜んでいる煩悩の表面化と他者との関わりとで考えてみるのならば、本偈の表している内容は、非常に重要なことを教えていることがわかる。

ながい仏教の歴史のなかで、本当の戦いとは心の戦いであり、本当の武器とは慈愛や精神の静寂であると説いている。小さな慢心や利己主義が客観的な知性や精神の静寂を乱し、自分だけはよいという思考や発言や行動を生み出している。現在のように感染症拡大の時期には、普段は人々の間に潜んでいた利己主義や猜疑心、嫉妬心、恐怖といった否定的な感情が社会の表面にまで浮き上がっている。そしてそれが制御できない状態となり、社会的な問題にまで発展している。誰しもが医学の発展や科学技術の発展により、もはや人類は進化できないのではないか、という錯覚が近年の人工知能に対する根拠のない過信を生み出していた。しかし自然災害は後を絶えず、疫病の流行や環境問題をはじめとする、人類史上常に取り組んできた未解決の問題が存在しつづけていることをいまの時は物語っている。感染症の拡大を封鎖できるもの、それは決して利己主義的な激情ではなく、知性にもとづく利他主義のみであろうし、私たちはそこに希望を繋いでいけるのではないだろうか。

鳴門海峡などの渦潮のあるところの深いところには魚はいるが表面にはいない

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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