2020.04.14
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

現世利益をもたらす主人や世間の神々は、火にかけた薬缶の湯のようなものである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第21回
訳・文:野村正次郎

悪い主人はどんなに敬い仕えても

賄賂がないだけですぐに怒り狂う

何日も沸騰させている水がまた

火がないだけですぐに冷めるように

21

本偈は前偈と同様に悪しき権力者のことを描いている。悪しき権力者というものは、無慚・無愧であり、常に敬意を払い奉仕しても、もしも貢ぎ物や賄賂を献上しなければ、急激に態度が豹変して、嫌悪感を丸出しにする。それはちょうど何日も釜で火にかけている鍋のなかの水も、火から離してしまえば、すぐに冷めてしまうようなものであるとする。貢物や賄賂をもっていっている限りは、笑顔で迎えてくれるような権力者は、あくまでも個人的な貢物や賄賂などの報酬をあてにしているのであって、報酬がなければすぐに態度を豹変するさまがここでは表現されている。

政治家や公務員の贈収賄は今日は法律によって規制されているが、それでも利権や助成金などの優遇措置などといった様々な贈収賄に準じているものが存在していることは確かである。小さな町の小さな土木工事などの公共事業の斡旋から、選挙資金の提供、票のとりまとめに至るまで、様々な見返りと、公共の福祉とを完全に切り離して活動できる政治家がどれだけいて、真に心から私利私欲なく政治家を擁立する一般人もどれだけいるか分からないが、多くの場合には、自分たちの地域に優先的に利益をもらしてくれるかどうか、ということが選挙運動における公約の中心になることが多いのである。これは政府や自治体の文化事業についても同じようなことがいえ、一般の人が外国の文化と触れあう機会を設けよう、という考えより、これだけ予算があるので、これだけこれに使って自分は何か得するのではないか、ということによって目論見によって物事が動くことの方が多い。

チベットの宗教や文化との交流に関していえば、基本的には行政関係は大変嫌がるものであり、ダライ・ラマ法王が広島に来られる際にも、地元の政治の関係者のなかには、ダライ・ラマ法王には今回は外務省がビザを出さないと決定した、という嘘の情報を流す人などもいて、大変困惑したものである。

「悪い主人」「悪い政治家」というのは、要するに煩悩によって様々な行動や言動をする者たちのことであり、もちろん彼らがそのようなことをしているのは過去世の悪業の異熟であるので、当の本人に対して嫌悪感をもったり、糾弾したり断罪してはいけないというのが、仏教の基本的な立場でもある。

仏教徒が仏教徒と言われるためには、最低でも仏法僧に帰依している者でなければならない。そして、仏法僧に帰依している限り、ブラフマン(梵天)やイーシュヴァラ(自在天)などの世間の神々を信用して、現世利益をもたらすことには長けているが、決して救いを求めてはならず、彼らの像等を礼拝してもいけない、という禁止事項を慎まなければならない。これは悪しき政治家と同じように無我を証解して煩悩を克服していないので、私利私欲によって活動する恐れがあるからである。たとえば最近日本で疫病退散のために妖怪を供養しようとする人がいるが、これは仏教徒であれば慎むべき行為である。

妖怪や悪しき政治家や世間の土地神などは私利私欲によって動く可能性が高く、賄賂や貢物を捧げている限りにおいて、我々を助けてくれることもあるが、それを怠ると態度が豹変して、破滅をもたらすことがあるのである。しかるに我々仏教徒は少なくとも出世間の諸仏や諸菩薩を心の拠り所としなくてはならないのである。チベットの社会でも釈尊や観音菩薩などの出世間の仏菩薩よりも、現世利益をすぐに持してくれるような世間の神々を祀っている人たちも多い。しかし本来仏教徒がきちんと仏教徒であるためにはこういう世間の神々や妖怪をはじめとし、現世での権力者に心から帰依したり、供養して現世利益を望むべきではないのである。

しかるに現世利益をもたらす主人や世間の神々は火にかけた薬缶の湯のようなものであると考えるべきであり、供養の対象ではない、と注意して考える必要がある。もしも一度一度供養しはじめたのなら、現世利益をもたらしてくれるかもしれないが、ずっと薪をくべて沸騰させつづけないように永遠に賄賂を支払わなければならなくなる。もしもそれをやめたら冷たい本性を露わにし豹変するのである。そんなことは実に恐ろしいことなので、私たちは最初から注意しなくてはならない。

薬缶の水を沸騰させ続けるのには相当のエネルギーが必要である

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