2020.04.11
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

調和と連帯とは貴いものである

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第18回
訳・文:野村正次郎

主従が連帯すれば敵軍も難攻不落となる

不和不仲で分裂していればそうでもない

馬でも泳いで渡れない大河であろうとも

もし分岐するならば羊でも渡れるのである

18

人類は集団を形成し、集団生活を営むことを習性とする生物である。形成された集団は事業の実施のために、意思を決定するための機能を必要とし、決定される意思の有効性としての権力が発生する。権力を主に行使する者を「主人」とし、集団の意思決定によって従って行動する者が「従者」となる。これらは集団によって実現する事業で集団にもたらされる利益を最大限にするための集団内の役割分担である。

集団化は、単一もしくは少数の個体だけでは不可能な規模の事業の実現を可能とし、作業効率を高めることができる。たとえば、農業に従事する者、牧畜に従事する者、狩猟に従事する者、商業に従事する者、このように目的別に分業化することで、我々の社会は全体として個体では実現できない公共の福祉としての成果を最大化し、最大限の利益を享受できるようになる。もしもすべてを分業することなく、すべての人が各平等に何かを労働を分配しなければならないのならば、効率は非常に悪くなり、効率が悪いことになると最終的には配当される利益を最大化できないことになる。しかるに集団の形成上、事業の成果を最大化するためにも、主人と従者という階級は必要となり、集団は常に連帯して統一した意思をもって事業に取り組むことが理想となる。もしも集団内部が団結し、主従が連帯関係にある場合には、敵対集団はその集団を攻撃しにくくなる。しかしながら内部分裂していれば攻めやすくなる。本偈ではこのことを、どんなに力強い馬でも泳いで渡れないような大きな川も、支流へと分岐していれば、羊も渡ることができるということで喩えられている。

言動のなかで「両舌」という集団を分裂させるような発言は、絶対的な不善であると言われている。これが何故悪業であるかといえば、集団を形成して生活する習性のもつ生物の集団としての能力を著しく損ない、それによって集団に属する個体の享受する利益を減少させるからなのである。人類だけには限らず、たとえば蜂や猿なども集団を形成して生きているが、如何なる生物の集団であっても、それを分裂させる行為は絶対的な不善となる、というのはこのような仕組みなのであろう。

仏教における集団として我々が最初に思いつくものとしては、善なる意思をもって出家者が集まった「僧伽」というものがある。釈尊の時代に、釈尊の教団へと入門し、釈尊と同じく仏の境地を目指す、という善き志をもって結集した集団には、ビンビサーラ王やプラセーナジット王などによって生活基盤となる住環境が提供され、教団はそれを共有の資産として活用し、常に修行者が修行に専念する環境を整えた。しかし釈尊の時代から、デーヴァダッタという集団の分裂を企画する者が出現し、両舌を行い、僧伽の分裂を企てたことも事実であり、集団を連帯させ継続的に運営することもまた意外にも簡単なことでもない。

我々の身の回りにある卑近な例を考えても分かるように、様々な集団には様々な不平や不満はつきものである。しかしもし集団の構成員が勝手なことばかりいい、自己の利益を優先し、公益を優先できない者が多数存在し分裂してしまうのならば、公益は失われてしまうものなのである。よき集団を形成するのには苦労と時間がかかるが、それを分裂させ破滅するのは、一瞬である。

現在の緊急事態宣言の発令下は、こうした我々は個体のもつ能力と、集団によって得られる公共の福祉について、いまいちど静かに考え直すよい機会ではないかと思われる。我が国には聖徳太子の「和をもって貴しとなす」という言葉がある。いまこの言葉が再び大切な意味をもっていることを思い出してみたい。

協力し合うということはいいものです

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