2020.04.08
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

悪しき集団はお互いを破滅へと向かわせる

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第16回
訳・文:野村正次郎

悪い主人と悪い従者は

互いに破滅させ合うものである

乾燥してない粘土の器に水を入れても

両者が溶け合い失われてしまうように

16

前偈では良い主人と良い従者は相互に協力し合い、高め合ってよい目的を実現することができるようになる、ということを説いていたがこれは逆の場合である。悪い主人と悪い従者はお互いに破滅させ合うということを説く。その例として乾燥していない粘土の器と水が使われている。

陶芸をするとき、土を練ってろくろで成形した後に、まずは一時間くらいは半乾燥させる。その後に、さらに細かい部分を仕上げ、その後で全体を完全に乾燥させなければならない。それが終わったら今度は素焼きをして、釉薬をかけ、本焼きをするという工程を経なくてはならない。もしも成形したばかりの器に水を入れたとすればどうなるか、というと粘土は溶けるだろうし、水は溶けた粘土で飲めないものとなってしまう。器に水を入れて飲む、という行為は、きちんと器が作られており、水もそれによって駄目にされることがない、という二つの条件が整って、はじめて実行可能であるということである。社会や民衆を導く者とそれに従う民衆も同じである、ということを説いている。

悪しき行いとは何かといえば、前回の逆であり、仏法僧の三宝を帰依することもなく、因果応報を考えずに何でもやりたい放題にやり、様々な理由をつけて悪業を慎むことなく、善業を行うことに怠慢になり、親や長老の者を敬うこともせず、徳のある人を尊敬せずに嫉妬したり悪評を流して、弱者に対しては見下して愛情や思いやりをもつこともなく、公共の利益ではなく個人的利益を優先すること、こういったことが世間的な品行方正でない悪しき行いであるということになる。通常私たちがやっていることは、大体は品位を欠いた、悪しき行いであるということになる。

仏教では、私たちは無始以来の悪業ばかりしてきたので、悪業を行うのは行い易く、善業を行うのは難しいと説いている。ケンスル・リンポチェが昔教えてくださってことに、私たちには大体悪い守護神と良い守護神の両方がついており、我々が悪いことをしようとするとその悪い守護神は喜んで、悪行を行う手助けをするらしい。一生懸命経典を暗記しようとしても居眠りしてしまったり、集中して本尊の観相を行おうとしても、雑念に振り回されたりするのも、こういう悪い守護神が助けてくれているからである、と以前お話になっていた。仏教を実践しようとしている時に、他の俗世間のことが気になってしまうのも、この悪い守護神によって邪念や雑念に捉われて、集中できない、つまり禅定状態を保てなくなってしまうのである。

雑念や邪念というものは、煩悩の一種であり、それが起こってもそこに付き従わない精神力が必要となる。たとえば化け物がいるような気がしたり、悪魔の囁きが聞こえてきたりする。魔物や化け物というのは、「私は化け物です。私は魔物です」というような分かりやすい感じではやってこない。むしろ「あなたの友達です。あなたのことを手助けしてあげます」といった自分にとって役にたつようなニコニコした笑顔で感じよく近寄ってくるものである。我々は煩悩に支配されており、それに振り回されやすいので、すぐに魔の囁きに耳を傾けてしまうものなのである。乾燥させていない粘土の器というのは、これと同じように心の統御ができていない指導者のことを表している。

こうしたものに振り回されないためには、強い善意への確信と、善なる意思を努力して持続することが重要になる。そしてそれを繰り返し修習して強い精神力と集中力を身につけたのならば、もしも邪魔するものがやってきてもそれを退散させることができるのである。釈尊の伝記には、慈悲の力によって魔の軍隊を制圧した、と言われているが、利己主義を克服し、慈悲の力によってのみ、すべての悪行との戦いに勝利できるのである。

チベットの黒土を使った陶芸
Smithsonian Center for Folklife & Cultural Heritage


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